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アクシャイクマール・センの生涯

 偉大なる文化の復興を伴って新しい時代の文明が到来を告げるとき、アヴァターラの出現は歴史の転換と革新を引き起こします。神の化身の人生は力そのものであり、彼の思想は革新的で刺激的です。特に彼の神秘的な魅力と崇高さは、作家、詩人、劇作家、画家、彫刻家、そして音楽家に対して、彼らの才能に力を与えるような特別な魅力を有しています。

 アヴァターラの引力を感じた芸術家の一人に、シュリー・ラーマクリシュナの人生を長編物語風の詩として記した「シュリー・ラーマクリシュナ・プンティ」を最高傑作とするアクシャイクマール・センがいました。

 アクシャイは、ベンガル地方のバンクラ地区にある小さな村であるマイナプールで、1854年に生まれました。彼の父親であるハラダル・センと母親のビドゥムキーは大変貧しく、彼に良質な教育を受けさせることができなかったので、アクシャイは村の学校で教育を受けました。彼が至高者クリシュナの献身者として謙虚に生きたという事実以上のことは、彼の幼少期についてはほとんど知られていません。やがて彼は結婚し、その後、妻を亡くして再婚しました。彼には2人の息子と1人の娘がいました。

 貧困から逃れるために、アクシャイは生まれ育った村からカルカッタへ引越し、そこでジョラサンコのタゴール家の家庭教師の仕事を見つけました。
 シュリー・ラーマクリシュナの献身者であったデヴェンドラナート・マズンダルは、たまたまタゴールの地所にある事務所で働いており、アクシャイと同じ屋根の下で生活していました。しかしアクシャイは劣等感のために、デヴェンドラに自己紹介することができませんでした。――彼は自分自身のことを、つまらなくて無学で貧乏な人間だと感じており、貴族階級である雇い主には距離を感じでいたのでした。

 アクシャイはシュリー・ラーマクリシュナにお会いする1年ほど前に、彼の家系のグルから、クリシュナの謙虚な献身者として正式なイニシエーションを受け、夜になるとガンガーの岸辺でジャパと瞑想を行ないました。しかし神のヴィジョンを得られなかったので、彼は落胆しました。

 ある日、アクシャイがベランダでタバコを楽しんでいると、タゴール家の若者のデヴェンドラとディヘンドラが、パラマハンサについて話しているのを耳にしました。アクシャイは興味をひかれて、そのパラマハンサについてもっと知りたいと思いました。彼は、そのような高い境地の魂は神を知る人であり、ほかの者を神への見神へと導くことができると知っていたのでした。
 しばらくしてデヴェンドラが一人になったところで、アクシャイは彼に近づいて言いました。

「あなたはパラマハンサについて話しておられましたね。そのお方がどこにいらっしゃるのか、教えていただけないでしょうか。」

 デヴェンドラはその質問には答えず、彼にこう問いました。

「それを聞いて、一体君に何の利益があるのだね?」

 アクシャイは困りましたが、彼の好奇心は増大しました。
 のちに彼は、シュリー・ラーマクリシュナがパラマハンサであり、ドッキネッショルにお住まいであることをディヘンドラから聞きました。

 それから六ヶ月が過ぎました。アクシャイの心はシュリー・ラーマクリシュナの虜になっていました。田舎から出てきたアクシャイにはドッキネッショルがどこに位置するのかまったく分からず、デヴェンドラの助けなくしてはシュリー・ラーマクリシュナにお会いする機会がありませんでした。機転を呼び起こして、アクシャイは匿名でデヴェンドラに奉仕することを決断しました。デヴェンドラが早朝にタバコを吸うことを知っていたので、アクシャイは彼がベッドから起き上がってくる前に炭火でタバコが香るように準備して、水タバコと一緒にデヴェンドラの部屋のドアの前に置いて去りました。デヴェンドラはもちろん、大好きなタバコを得てとても喜びましたが、誰が彼に奉仕したのか不思議に思いました。二、三日して彼は、アクシャイがタバコを準備したのだと知りました。彼がなぜそうしたのかと尋ねると、アクシャイは言いました。

「どうか、パラマハンサのところに連れて行っていただけないでしょうか。」

 彼の誠実さと謙虚さを見て、デヴェンドラは同意しました。

 おそらく1885年の初頭の土曜日に、マヒマーチャラン・チャクラバルティは祝祭を手配して、シュリー・ラーマクリシュナとその献身者たちを北カルカッタのコシポルロード100番地の彼の家に招きました。アクシャイは、デヴェンドラがその式典に参加する計画をしていて、ディヘンドラを一緒に連れて行く予定であるということを聞きました。彼の心臓はドキドキと鼓動を打ちました。なぜなら、彼はもはやパラマハンサにお会いすることを待つのに耐えられないほどだったのです。二人が貸し馬車に乗り込もうとしたとき、アクシャイはデヴェンドラに駆け寄って両手で彼の足をつかみ、嘆願しました。

「どうか、あなた方が訪れようとしている場所に、私も一緒に連れていっていただけないでしょうか。」

 デヴェンドラは快諾しました。
 貸し馬車はマヒマー宅に到着し、そこにはスレンドラ、M、ヴィジャイ・クリシュナ・ゴースワミー、その他の人々が来ていました。デヴェンドラやその他の人々は師の御足の塵をとり、アクシャイもそれに倣いました。アクシャイは、師が慈悲深い一瞥を彼に投げかけたことに気がつきました。そして、彼は一心不乱に師を見つめながら座りました。肉体と周囲のことなど忘れ去り、彼はシュリー・ラーマクリシュナの魅力とお話に心を奪われ、祝福の流れの中でうっとりとしていました。
 やがて、献身者たちは中庭でキールタンを歌いはじめました。太鼓とシンバルの音が聞こえはじめるとすぐに、シュリー・ラーマクリシュナはキールタンの仲間に加わって、次の歌を歌いました。

 見よ、二人の兄弟がやってきた
 ハリの御名を唱えながら涙を流して
 恍惚として踊る
 彼の御名の中で世界を踊らせる!
 彼らを見よ、御名を称え、
 全世界は、彼らと共に涙を流す
 殴打の代わりにこの兄弟は
 ハリの愛を罪人に示す

 神の喜びに酔いしれて、シュリー・ラーマクリシュナはキールタンの輪の中で踊りはじめました。ときどき師はサマーディに入って石像のように動かなくなり、そうでないときは部分的な意識の中でゆっくりとリズムに合わせて踊っておられました。師はアクシャイにも感じられるようなはっきりとした霊的雰囲気をおつくりになり、アクシャイは天国にいるように思いました。ブラフモ・サマージの指導者であるヴィジャイ・クリシュナ・ゴースワミーは、師の次に踊りはじめました。
 そしてヴィジャイは突然、シュリー・ラーマクリシュナを指差して、叫びました。

「この方はわれわれのクリシュナです!」

 この言葉はアクシャイに真実を明らかにし、真理の直接的体験をもたらしました。師は、彼が幼少期から切望してやまなかったシュリー・クリシュナに他ならなかったのです。師は彼に、愛の化身としてのお姿をお現わしになったのでした。

 キールタンは午後の9時に終わり、それから献身者たちは師に奉仕しはじめました。ある者は師をうちわで扇ぎ、ほかの者はシュリー・ラーマクリシュナに氷水を持ってきました。一方でマヒマーは、献身者たちのためにさまざまな美味しい夕食を準備しました。夕食のあと、シュリー・ラーマクリシュナは、献身者たちと会話するために、部屋へ移動なさいました。
 アクシャイは心の中で考えました。

「師は、親しい献身者たちにはご自身の神性をお現わしになっているのだろう。師の恩寵と信仰心なくしては、誰も師のことを理解することなどできない。」

 突然、シュリーラーマクリシュナは、心地よいお声で、至高者クリシュナの言葉を歌いはじめました。

 解脱ならば喜んで与えるが
 純粋な愛を与えるのは本当にためらってしまう。
 純粋な愛を達成した者は、すべてを超越してしまうから。
 彼は三界を越えて人々に崇拝されるのだ。

 チャンドラヴァティよ、聞きなさい。私はお前に、愛について語ろう。
 人々は解脱を達成するかもしれないが、バクティを得ることは稀だ。
 信愛に酔いしれて、私は地下世界のヴァリ王の門番になったのだ。

 ヴリンダーヴァンが信愛を見出すことができる唯一の場所。
 ゴーパとゴーピーだけが知っているその秘密。
 その信愛に酔いしれて、私はナンダの家に住んだのだ。
 私はナンダを父としてみなし
 彼の重荷を頭にのせて運んだよ。

 祭典が終わると、師はドッキネッショルにご出発になりました。アクシャイは、シュリー・ラーマクリシュナの弟子で家主のラームとともに、デヴェンドラとディヘンドラと貸し馬車に乗り込みました。ラームはその夜、アクシャイと友人となり、師に関する多くのすばらしい事柄を彼に話しました。そしてラームが彼の住居があるシムラー地区で貸し馬車を降りたとき、アクシャイも一緒に降りたのでした。ラームの家に到着してから、アクシャイはシュリー・ラーマクリシュナについてさらに多くの話を聞きました。深夜の二時になって、ようやく彼は家に帰りました。

 最初の出会いのあと、アクシャイは師に再び会うことを切望し、彼の心は師のことでいっぱいになりました。二、三日後に、アクシャイは友達とドッキネッショルにいく機会を得ました。このとき、シュリー・ラーマクリシュナはアクシャイに、彼がブラフモ・サマージの会員なのかどうかということを含めて、彼の人生の多くの事柄についてお尋ねになりました。
 しかし師はアクシャイが御足に触れることをお許しにならず、その拒絶はアクシャイを苦しめました。シュリー・ラーマクリシュナはおっしゃいました。

「おまえの心を浄化しなさい。そうすれば触れられるだろう。」

 三回目の訪問のあと、アクシャイは、もし誰かが彼にクリシュナのヴィジョンを与えることができるとしたら、それはシュリー・ラーマクリシュナであると確信しました。そしてのちに彼は、クリシュナとシュリー・ラーマクリシュナが同一の存在であることを理解しました。

 彼は、『ラーマクリシュナ・マヒマー』 の中でこう書きました。

「私はシュリーラーマクリシュナとお話しすることも、彼に質問することもできませんでした。けれども私は知っていたのです。胸に師の一触れを受けたものは誰でも、外界の意識を失ってクリシュナを見神できるのだと。このことを期待しながら、私は師の元へ通い続けました。それだけでなく、師にお会いするときはいつも、私は自分が別人になったように感じました。私はよく、師がお慈悲から私の胸にお触れくださったらどうなるのであろうかと考えたものでした。多くの日々が過ぎ去っていきましたが、師は私の願望を叶えられることはありませんでした。わたしはいつも、師のもとに大きな期待を抱いて伺っては、涙で目を濡らして失望とともに家に帰りました。
 私の人生の中で、師と言葉を交わしたのはたった数回でした。ある日、師がお一人でおられるのを見かけて、私は声をおかけしました。

『師よ、私は盲目(無知)です。』

 この言葉に、師はお答えになりました。

『神はここにいるよ。』

 別の日、私は師のためにアイスクリームコーンをお持ちしたのですが、師はそれにお触れになりませんでした。私は伺いました。

『師よ、なぜアイスクリームコーンをお召し上がりにならないのですか? 私は惨めな気持ちです。』

 師は笑顔でお答えになりました。

『もしおまえが昼間にアイスクリームを持ってきたなら食べただろうよ。夜に冷たいものを食べたら病気になってしまうだろうから、食べなかったのだよ。』

 このような方法で、師は私をご指導になりました。もし師がこのように他の人間を扱われたなら、その人は二度と戻ってこなかったでしょう。他の多くの献身者たちは師の御足に触れていましたが、私が触れようとするときはいつも師は足を引っ込めてしまわれて、ときには『分かった! 分かった!』とおっしゃりながら席を立ってしまわれました。

 師はよく、難しい霊的な問題についてお話しになり、私は師のおっしゃっていることを理解することができず、部屋の隅に静かに座って師を見つめていました。」

 普通の人間に、アヴァターラの行動や振る舞いを理解することはとても困難です。彼は、厳しさを通して献身者の悪いカルマを浄化するかもしれませんし、無関心を通してエゴを打ち壊すかもしれません。もし献身者がそのような試練に耐えることができたなら、彼は何かを成就するのです。
 アクシャイは祈りと涙を通して彼の心の不純物を拭い去ろうとし、徐々に彼は師の無言の祝福を感じました。

 のちに、彼は著書の中でこう記しています。

「シュリー・ラーマクリシュナは、彼が神ご自身であるという確固たる信念を私にもたらすことで、私に説明と証明をなさったのだ。師はアヴァターラであり、宇宙の創造主であり、全能の神です。師はラーマであり、クリシュナであり、カーリーであり、まさにサチダーナンダです。師は心と知性を超えており、しかしまた、純粋な心と智慧を通してのみ知られる御方です。」

 試練の期間の間、アクシャイは恐れと苦しみを抱いて生きていました。彼は師を恐れていましたが、その一方で師を父親のように感じていました。彼はシュリー・ラーマクリシュナに圧倒的に魅了されており、どのように愛を表現したらよいのか分からずにいました。

 あるときアクシャイはデヴェンドラに、自分に祝福を与えてくれるよう師に頼んでほしいと懇願しました。デヴェンドラはドッキネッショルに行き、アクシャイの要望を師に伝えました。
 シュリー・ラーマクリシュナはおっしゃいました。

「なんだって? お前、アクシャイにいくつか助言を与えなさい。」

 師の指示に従って、デヴェンドラはアクシャイに、ハリの御名を唱えるように告げました。アクシャイは助言を得て、切望とともにジャパを修習しはじめました。

 1885年の4月6日、デヴェンドラは自宅で、シュリーラーマクリシュナの栄光をたたえる祭典を開催しました。アクシャイは献身者の群集の中にいました。デヴェンドラは夕食の指示を出すのに忙しかったので、アクシャイに師を扇ぐように頼みました。シュリー・ラーマクリシュナは、献身者に囲まれて客間に座っておられました。アクシャイは非常に喜んで、ウペンドラとともに師の近くに座って、師の御足をマッサージしました。

 1886年1月1日、シュリー・ラーマクリシュナはカルパタル(願望成就の木)となり、「輝いてあれ」と言って多くの献身者を祝福しました。コシポルガーデンで、師が午後の散歩をなさっているときにその出来事は起こりました。師が庭にお入りになられたので、献身者たちは師のあとを追いかけました。低い木の枝の上に、他の何人かとともにアクシャイは座り、師を拝見しました。師が、献身者たちの中心で立ち止まってサマーディに入っておられるのを見て、アクシャイは急いで師の下へ向かいました。アクシャイは、二本のチャンパカ の花を摘んで、師の御足に捧げました。
 しばらくして、師は半ば恍惚とした意識状態まで降りてこられて、献身者たち一人ひとりにお触れになりました。この行為は、献身者たちの間に大きな感情的熱情と興奮を生み出しました。
 ある者は彼らの信仰する神のヴィジョンを受け取り、ある者はクンダリニーの覚醒を経験し、ある者は言葉にならない至福を味わい、他の者たちは恍惚として笑ったり泣いたり叫んだりし始めました。
 アクシャイは離れたところからすべての出来事を眺めていました。すると突然、師の眼差しがアクシャイに注がれ、師はおっしゃいました。

「やあ。」

 アクシャイが師の元へ駆け寄ると、師は御手で彼の胸に触れて、耳元でマントラを囁かれました。突然、アクシャイは師の祝福の効果を経験しました。彼は、祝福の奔流を受けとめきることができず、感情の高まりに立っていることができなくなり、地面に倒れこみました。彼の両腕は変形したかのようにねじれ、涙が溢れだしました。

 1886年8月15日、スワミ・ヴィヴェーカーナンダはアクシャイに、師を扇ぐように指示しました。夕方になり、シュリー・ラーマクリシュナは少量のデンプンのプディングをお召し上がりになろうとしましたが、それを飲み込むことができませんでした。ぐったりとして、師は再びベッドに横になられると、サマーディにお入りになりました。シャシ(のちのスワミ・ラーマクリシュナーナンダ)は叫び声をあげて、アクシャイに師の近しい二人の信者ギリシュとラームを呼ぶように頼みました。アクシャイはただちにカルカッタに急行し、師の危篤状態を彼らに告げると、急いでコシポルへと帰ってきました。
 サマーディから目覚めた後、師はたいへん空腹になられて、食事をお求めになりました。今度は師は難なく皿いっぱいのプティングをお召し上がりになり、献身者たちはおおいに安らぎました。それから師はハッキリとしたお声で三回ほど「カーリー、カーリー、カーリー」と繰り返されると、ゆっくりと再びベッドに横たわられました。しばらくすると、師はまたサマーディにお入りになりました。師の視線は鼻の上に固定され、お顔は甘い微笑みで覆われていました。そしてシュリー・ラーマクリシュナは1886年8月16日の午前1時2分にお亡くなりになりました。

 師がこの世を去られてから、アクシャイはシュリー・ラーマクリシュナのお写真をサンダルの粉で飾りたて、一本弦の楽器の伴奏で師の栄光を讃える歌を歌いました。彼には文学の技能はありませんでしたが、シュリー・ラーマクリシュナについて何かを記したいという抵抗しがたい衝動を感じました。
 
 聖書にはこう書いてあります。

「神の恵みにより、口のきけないものは雄弁になり、足の不自由な人間は山に登る。」

 アクシャイを最初にシュリー・ラーマクリシュナの元へ連れて行ったデヴェンドラは、師の人生について彼が記すことを提案しました。
 しかしアクシャイは、自分自身の能力について疑念がありました。師について記したいという思いが彼を内側からせき立てていましたが、同時に自分にはそのような文学的能力はないと思っていたのでした。彼の誠実さを見て、スワミ・ヴィヴェーカーナンダは、イギリスの詩人キャドモンドの話をしました。キャドモンドは読み書きできずアルファベットすら知らない牧夫だったのでした。ある夜、彼は天使のヴィジョンを見ました。そしてその天使の祝福によって、彼に詩的才能が芽生えたのでした。キャドモンドは即興で創作し、公の場で詩や賛美歌を吟唱したりもしました。
 この話に感化され、アクシャイは1887年にベンガル語の詩を書き始めました。シュリー・ラーマクリシュナの人生の初期について書き終えた後、アクシャイはバラナゴル僧院でスワミ・ヴィヴェーカーナンダにそれを読み聞かせました。スワミジは大変深く心動かされ、そのときべルルに滞在されていたホーリーマザーの下へアクシャイを連れて行きました。ホーリーマザーはその原稿の朗読を聞いた後に、アクシャイを祝福されました。のちにマザーがカマルプクルにおられたとき、アクシャイもそこにいたので、マザーは個人的に師のことを知っていた村の女性たちを招き、アクシャイに彼の著書を彼女たちに読んで聞かせるようにおっしゃいました。このときマザーは恍惚状態になられ、再びアクシャイを祝福すると、師についてもっと記すように彼に頼まれました。アクシャイは、彼の著書のための材料を与えてくれたギリシュ、スワミ・ヨーガーナンダ、ニランジャーナンダ、ラーマクリシュナーナンダに深く感謝しました。
 アクシャイは、クリッティヴァーサのラーマーヤナとカーシーラームダースのマハーバーラタのスタイルで、シュリー・ラーマクリシュナの人生について記しました。それは、1894年から1901年の間に、「バガヴァーン・シュリー・シュリー・ラーマクリシュナ・パラマハンサデーヴァル・チャリタームリタ」というタイトルで、4部作で販売されました。そして1901年10月25日、「シュリー・シュリー・ラーマクリシュナ・プンティ」というタイトルで、4部作すべてを1冊の巻にまとめて出版されました。1998年、彼のベンガル語の詩は英語に翻訳され、「A Portrait of Sri Ramakrishna」のタイトルでカルカッタのラーマクリシュナ・ミッション協会から出版されました。

 あるときスワミ・シヴァーナンダは、「シュリー・シュリー・ラーマクリシュナ・プンティ」がどのようにして生み出されたのかを説明しました。

「アクシャイ・センは、世界中の多くの人々を助けた。彼は善良な人間で素晴らしい献身者だったが、極めて貧しかった。彼がプンティの中で示した事実は本当に美しい。われわれはこれらの話の多くを知らなかった。アクシャイは、カマルプクルやシハルなどの場所にいる師と同年代の人々から、すべての材料を集めてきたのだ。それから彼は、簡単な村の言葉を使い、ラーマーヤナやマハーバーラタの詩的形式で師の人生をつづったのだった。いまや、博識な者たちでさえもプンティを高く評価している。アクシャイは学者ではなかったが、彼は素晴らしい誠実さを持っていた。この本を書き始めたとき、彼はアヒリトラで一般の仕事をしていて、夜に執筆していたと聞いている。さらにわれわれは、夜になると彼はガンガーの岸辺に行き、渇仰心とともに師に呼びかけるのだと聞いていた。『師よ、どうか、私があなたの尊い人生について何か記すことのできるように、私に強さをお与えください』と。直ちに彼は内面から沸き起こるインスピレーションを感じ、アパートに戻って書き始めたのだそうだ。このプンティは、大変上手に書かれている。」

 1895年のシュリー・ラーマクリシュナの生誕祭の間に、アクシャイはドッキネッショルの師のお部屋の北側のベランダで「シュリー・シュリー・ラーマクリシュナ・プンティ」を初めて公の場で朗読しました。スワミ・アドブターナンダが同席していました。感銘を受けたスワミはいいました。

「アクシャイ・バーブ、あなたは人類に大して偉大な奉仕を行ないました。あなたは、(当時、教育を受けることのできなかった大多数の)女性でも師について理解できるような大変素晴らしい方法で、師の伝記を書いたのです。」

 
 アクシャイは、彼の著書のコピーを、そのときアメリカで公演をしてまわっていたスワミ・ヴィヴェーカーナンダの元へ送りました。1895年のはじめに、スワミジはアメリカからスワミ・ラーマクリシュナーナンダに送った手紙の中でこう書いています。

「たった今、アクシャイの本を読みました。私から彼へ、十万の心からの抱擁を贈ります。彼のペンを通して、シュリー・ラーマクリシュナご自身が顕現なさっておられます。祝福された者はアクシャイです。全ての前に、アクシャイにプンティを朗誦させてください。彼は祭典で皆の前でプンティを朗誦しなければなりません。もし作品があまりに長編なようでしたら、抜粋を彼に読ませてください。私はプンティの中に、たった一つも無意味な言葉を見つけることができません。彼の本を読むことで私が経験した歓喜は、言葉でいいあらわすことができません。全ての兄弟弟子たちよ、この本が世に広く流通するように取り組みなさい。それからアクシャイに、村から村を伝道して回るように頼んでください。アクシャイはよくぞ完成させました。彼は、彼の使命を果たしているところです。村々を訪ね、シュリー・ラーマクリシュナの教えの全てを広めなさい。これより祝福された事柄がありましょうか? アクシャイの著書とアクシャイ自身で、大衆に感動を与えなければなりません。親愛なる、親愛なるアクシャイよ、私の勇気の全てをあなたに授けます、わが親愛なる兄弟よ。主が、あなたの舌の上に鎮座なさりますように。行きなさい。一軒一軒家々をまわり、師の教えを広めなさい。サンニャーシン(托鉢僧)になるかどうかは問題ではありません。アクシャイは、ベンガルのメッセージを伝えるための次世代の伝道者です。アクシャイを大事にしてください。そうすれば、彼の信仰と献身は実を結ぶでしょう。」

 さらにこの手紙の中でスワミジは、アクシャイの著書の次の版に追加してもらいたいと、いくつかのアイデアを記しました。

 プンティの中でアクシャイは、1885年にスワミ・ヴィヴェーカーナンダから「シャンクチュンニ・マスター」というユーモラスなニックネームを受け取ったと明かしました。「チュンニ」とは、「バングルを身につけている女性の幽霊」を意味します。そして学校の教師であった彼は「マスター」と呼ばれていました。スワミジが彼のことをシャンクチュンニ・マスター」と呼んだのは、小さな目、分厚い唇、平べったい鼻、細い体と暗い顔色という、彼の外見ゆえでした。何年かしてアクシャイは、長い灰色の顎ひげと口ひげを伸ばし、分厚いメガネをかけて、しばしばターバンを巻くようになりました。これらのこと全てが、彼の幾分奇妙な装いの一因となったのでした。

 アクシャイの詩才は、シュリー・ラーマクリシュナの伝記執筆だけでは終わりませんでした。彼は、師の教えを簡単で旋律的な韻文としても表現しました。シュリー・ラーマクリシュナの141の教えを含んだこの本は、「パディエー・シュリー・シュリー・ラーマクリシュナ・パラマハンサデーヴァル・ウパデーシュ」というタイトルで1896年に出版されました。14年ほど後の1900年、アクシャイは質疑応答のスタイルで「シュリー・シュリー・ラーマクリシュナ・マヒマー」(シュリー・ラーマクリシュナの栄光)を書きました。この本で読者は、アクシャイの文学的技巧と合理的な見解、そしてシュリー・ラーマクリシュナの人生と哲学への深い理解に感嘆することでしょう。

 アクシャイはしばらくの間、シュリー・ラーマクリシュナの在家弟子であるウペンドラナート・ムッコーパディヤイが所有しているバスマティ出版事務所で働きました。その仕事を退職した後に、アクシャイはカルカッタを離れて、彼の故郷の村へ向かい、残りの人生を過ごしました。
 あるときは、ウメシュ・バーブ博士と他の献身者たちが彼をマイメンシン(今のバングラディシュ)へ連れて行き、彼は師の思い出にふけりながら何ヶ月かをそこで過ごしました。彼はマイメンシン、ダッカ、マドラス、ラクナウの献身者たちによって財政的に助けられました。

 かつてアクシャイがウドボーダンを訪れていたときに、スワミ・サーラダーナンダが彼に「シュリー・シュリー・ラーマクリシュナ・リーラー・プラサンガ」(サーラダーナンダが書いた、ラーマクリシュナの伝記)を贈り、それを朗読してほしいと彼に頼みました。アクシャイは後に、若い修行者にこう話しています。

「兄弟よ、私はその本を手にすると、自分の部屋へ置いた。わたしは、Mや私が師のことについて記してしまったので、スワミ・サーラダーナンダが師について何が書けるだろうかと、少し自惚れていた。そしてある日、僧院の兄弟弟子が無償でその本の全ての巻をくれたとき、自惚れは突然、私の心に差し込んだのだ。エゴは増大し、私はそれらの本を開くことさえできなかった!
 兄弟よ、しかし私はそれらの本を読んだ後に唖然とした。私は古い情報を受け取っていて、プンティの中でいくつか間違いをおかしており、サーラダーナンダの本は正しい証拠に基づいているということを知ったのだ。それから、私はもう年をとっていたけれども、できる限り著書を修正した。これが私のプンティの最後の修正版だ。私はこれをあなたに託すことにする。私はもうそんなに長くは生きない。この版を君に託すので、スワミ・サーラダーナンダに渡してほしい。彼が望むなら、将来、彼に発表してもらいたい。そしてこの本の売り上げから数パーセントの利益を、師の礼拝のために使ってほしい。」

 貧困や家族の問題があるにも関わらず、アクシャイは師の思い出の中で日々を過ごしました。毎朝、礼拝の前に彼は花を摘み、体を清めました。高齢になっても甘美な声によって、一本弦の楽器を伴奏して神の御名を唱えました。沐浴と礼拝の後に、彼は「シュリー・ラーマクリシュナ――偉大なる師」を読んだり、何かを綴ったりしました。夏の月の正午には、アクシャイは聖廟へ行き、師を扇ぐのでした。人生最後の三年間の間、アクシャイがリウマチなどの身体的な障害のために礼拝できなかったときは、彼の苦悩を和らげるために、彼の息子の妻が師への礼拝の責務を果たしました。

 アクシャイはホーリーマザーに深く献身していました。彼の自宅とマザーのご両親の家は同じ地区にあったので、マザーがジャイラームバティにおいでのときはいつも、アクシャイはマザーにお会いするために手に杖をもって素足で向かいました。彼はいつも、ホーリーマザーのために何かを手に携えていきました。マザーに頭を下げてお辞儀をし、彼は解脱を祈るのでした。
 一度、アクシャイはジャイラームバティで「お母さん」と呼びしたことがあり、マザーは「そうです、我が息子よ」とお答えになりました。アクシャイは大胆にこう言いました。

「マザー、私はあなたを『お母さん』とお呼びし、あなたは『そうです』とお答えになりましたので、私にはもう何も怖いものはありません。」

この言葉に、ホリーマザーはおっしゃいました。

「息子よ、そのようなことは言ってはなりません。成功は慎重な者のところにだけやってくるのです。」

 生来、感情的で繊細すぎるアクシャイは、特に師やマザーからの愛情と好意を全てにおいて期待していました。あるときは、ジャイラームバティにおられるホーリーマザーに、マザーが彼よりもカルカッタにいる献身者たちにより注意を払っていると不満の手紙を書いたりもしました。マザーは手紙の中でお答えになりました。
「私は、あなたの手紙の内容を理解しました。あなたはジャイラームバティを訪ねてきたことを書いていましたが、私はそのことについて知りませんでした。私が生きている限り、あなたの訪問を歓迎しますよ。私は誰に対しても嫌悪したり愛著したりしません。全ての人を私自身だと考えているのです。私の心に分離はありません。あなたが神に帰依すれば、あなたは私そのもととなるのです。どうか嘆き悲しまないでください。機会があるときは、あなたはいつでも自由にここへ来てよいのですよ。あなたの手紙は私を驚かせました。心から全ての不純物を取り去り、自由であり続けてください。」

 ホーリー・マザーはアクシャイにこのように話したことがありました。

「少しだけ苦しみが、あなたの人生の終わりにやってくるでしょう。」

 死の四日前に、彼は赤痢を患い、発熱しました。アクシャイの死が近づいたとき、彼の弟はシュリー・ラーマクリシュナの御名を唱え始めました。
アクシャイは突然、周囲に対して言いました。

「どうか、今は静かにしてください。私は今、師とマザーにお会いしています。」

 その場にいた者はみな、彼の顔が明るく輝き、目は半分閉じられているのに気づきました。そして、彼は息を引き取りました。アクシャイは、1923年12月7日金曜日の朝9時に亡くなりました。

 シュリー・ラーマクリシュナの神のドラマの中で、アクシャイは吟遊詩人の役を演じました。彼のバラードはいまだに、師の不滅の人生とメッセージを広め続けています。

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