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「84人の成就者たち」第一回(3)

(M)先生、一つよろしいでしょうか。階級へ分別が最後のけがれとしてあったっていうことなんですけど、それを落とすのに十二年かかってるんですよね? やっぱりそれくらい長い期間っていうか、一つのけがれを落とすのに十二年かかるのは、それくらい、この人にとってすごいけがれだったっていうことでしょうか?

 そうですね。まあこの人にとってっていうよりも、もちろんわれわれにとってもね。つまりそれは大変なことなわけだね。
 もちろん修行の、なんていうかな、どれくらいかかるかとか、あるいはどの部分にどれくらいかかるかっていうのは、完全に人によるともいえる。その人の素質とかけがれとかによるわけだけど、まあ今Mくんが言ったように、この人の場合はいってみれば、これをこのまま読むとね、つまり九割方、九十パーセントぐらいは多分、短い間に終わってたんだね。最後の十パーセントのその分別を捨てるのに十二年かかってる。でもまあ、つまりそれだけ大変なんだね。
 分別っていうのはつまり、ここではまあ単純にその階級への執着というのが一番スポットが当てられてるけど、もちろんそれだけじゃないわけだね。つまり、分別っていうのはもちろんすべてに行き渡ってるっていうか、「これはこうであり、あれはああであり」――つまりわれわれが最終的にやらなきゃいけないのは、まあ無分別智っていうわけだけど、その分別とかあるいは識別であるとか、そういった相対的な概念を超えた悟りを得なきゃいけない。で、なんていうかな、それはもう雲をつかむような話なんだね、ほんとに。だってわれわれはもう、「概念を超えなきゃいけない」っていうのも概念だから(笑)。なかなか、どうやってここから出たらいいのか分かんないっていうところがある。で、それを、もう一回言うけどもルーイーパの場合は――まあつまりこの人が魚のはらわたを食ったっていうのは、おそらくこの人にとっては「はらわたなんて絶対食えん」っていうのがあったと思うんだね、一つは。で、それを食い続けることで、自分の分別を壊す一つの手助けにしたんだけど、もちろんそれだけじゃないと思うよ。はらわた食って、あとは何もしてないってわけじゃない(笑)。そのほかの、例えば一日中いろんなかたちで自分の最後の分別を壊す修行をいっぱいやってたと思う。で、それが十二年かかった。
 それは確かに、M君の言うとおり大変なことなんだね。それだけなかなか、最終のその段階に行くのは難しい。
 ただ、ちょっと話が広がるけど、バクティヨーガの世界においては、これはラーマクリシュナとかも言ってるけど、例えば「わたし」とかあるいは「この世界」とかそういう分別っていうのは、なかなかなくならないよと。ぶっちゃけて言っちゃえば。つまりよくさ、頭だけで教えを学んだ人が、「すべては空だ」とか「無我」とか言ってるけど、その人をバーンって叩けば「痛えな!」と。ね(笑)。つまり全然なくなってないわけです、分別が。分別がなくなるって大変なことなんです。もちろんこのルーイーパみたいに一生懸命修行すれば最後にはなくなるわけだけど、普通はなかなか大変ですよと。よって、良い分別、良い自我を持てっていうわけだね。
 これはアーナンダマイー・マーとかも言ってるけど、つまり例えば「おれは王だ」とか、これは駄目だと。あるいは「おれはこんなに偉いんだ」――これも駄目だと。じゃなくて、「わたしは神の召使いだ」とかね、「神の道具である」とか、あるいは「わたしは菩薩である」とか、これはいい分別だよね。だからそれをまず持ちなさいと。それがあなたを、最終的な無分別に逆に近づけてくれますよと。つまり、「おれは無我なんだ、空なんだ」とかいうフリをして五年十年とやるよりは、逆に「菩薩である!」、あるいは「神のしもべだ!」っていう分別、自我意識を強く持った方が、最終的にすべてを打ち壊すだけの、なんていうかな、パワーを持つという感じがするね。
 わたしも修行中に、なんかそういう、まあ感覚っていうか、そういうことを思ったことがよくある。そういうことっていうのは、修行っていろんな修行があるけども、今言ったこの無分別になっていくような修行ね。つまり自分のいろんな概念とか観念とか、自我とかをどんどん崩していくタイプの瞑想とかをやってたときに、自分っていう概念がどんどん崩れていく。あるいは、さまざまな外側の世界に対する、「これはこうで」っていうような見方もどんどん崩れていく。それはそれでいいんだけど、自分でやっぱりね、ちょっとね、直感的に、「これではまずいな」と思った。それは何かっていうと、確かに自分っていうのはなくなりそうな感覚があったんだけど、なんていうかな、多分まだわたしは未熟であると。こんな未熟な状態で、単に一切のものをなくしても、それはなんのメリットもないっていうか、あるいは人々へ与えるメリットもないと。でももちろん悪い概念はどんどん崩していった方がいい。例えばそうだな、「おれは男だからこうだ」とか、あるいは「おれはこんなに長く修行してるんだからこんなにすごいんだ」とか、そのような悪い概念はどんどん崩していく。ワーッてなくなっていく。でも、なんていうかな、ちょっと伝えづらいんだけど、そういった概念がなくなっていくと、完全にそれでそのままニルヴァーナに入っちゃうならいいんだけど、なんていうのかな、生きているうちは、普通はまた概念に引き戻されたりするわけですよ。で、その概念に引き戻されるときに、放っておくとどんな概念に引き戻されるか分かんないよ。
 つまり何を言ってるかっていうと、例えば一人で瞑想していてね、いろんな概念を壊していったと。ガーッて壊していきました――で、何があるか分かんない。何があるかっていうのは、例えば誰かこう歩いてきて、そうだな、その人がちょっと乞食みたいな人だったとするよ。乞食ね。つまりあまり働いていない、みすぼらしい、今日食べるものもないような人が現われて。で、そこで概念がなかったわたしがそれを見たときに――それを見ても概念が出なきゃいいんだけど――それを見たときにパッと一瞬でも、「ああ、あの人は悲惨である」とか、「わたしは着るものもあり徳もあっていいな」みたいな、そんなちょっと差別意識みたいなものがパッて出たとしたら、その世界にバッと固定されてしまうんだね。そうすると、瞑想する前よりちょっとひどい人になってしまう(笑)。言ってみればね。そういうような、なんていうか危険性を感じたんだね。だからわたしは、「あー!」って自分がなくなりそうになったときに、それはそれでいいんだが、それよりも、良い自我意識っていうのを、まさにさっき言ったみたいに育てることに力を入れた方がいいと思った。
 まあこれは仏教の四念処の瞑想とかにもつながるわけだけど、例えば人間っていう自我意識を崩していく。「人間って何それ?」と。人間ってそれはただの名前であって、わたしは人間ではないと。「男?」――男っていう意識もそれは概念であって、わたしは男でもない。だからわたしの、例えば名前であるとか、あるいはそのころのいろんな、例えば仕事の内容であるとか、あるいはいろんなその定義づけね、この定義付けをバーッと自分から外していった。でも一つだけ残すわけです。「菩薩である」と。あるいは「神のしもべである」と。それだけを残す。つまり、「わたしはなんでもないが、菩薩である」と。「他のなんでもないが、神の道具である」と。これが実質的に非常に利益がある。
 ちょっと話が広がっちゃったけどね(笑)。もう一回言うけども、現実的にほんとにわれわれがすべての分別を捨てるのは、もちろんすごく時間がかかるしすごく大変なことだね。だから逆に言うと、一つの実質的なアドヴァイスとしては、皆さんは決してその罠にははまらないでください。つまり仏教とかちょっと学び始めると、空とか無我とかいうのがいっぱい説かれるから、頭だけでそれを理解しちゃって、「いや、先生、すべては空なんです」とかね(笑)。そうなったら逆に、本当の空とか無我とか無分別からは遠ざかってしまう。だから実質的なアドヴァイスとしては、空や無我や無分別の修行もしつつ、同時に「わたし菩薩である」や「わたし神のしもべである」といったような、聖なる意識を確定させていくことに力を注いだ方が、本当の意味での素晴らしい空や無分別の境地に早くたどり着くでしょうね。

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