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「2011年ホーリーマザー生誕祭より」(5)

◎神にすべてをさらけ出す

 はい、他何か質問その他ありますか?

(質問者B)ちょっと今日の話とずれちゃうんですけど、神にすべてをさらけ出す、神にすべてをさらけ出しっていうことについて、ちょっとお伺いしたいっていうか、どうすればいいのかっていうか、そういうとこをちょっとお伺いできたら・・・・・・

 どうすればいいかじゃないよね。それは逆に言うと、「どうすればいいのか」っていうこと自体がちょっと固く考え過ぎ。もうそのままです。「神にすべてをさらけ出す」。
 だからそれはまさに今日の話でもあったようにね、まさにわれわれは神の幼子として、それは至高者っていうイメージでもいいし、あるいは今日の母なる神っていうイメージでもいいので―――もちろん現実的にはグルっていう存在がいて、グルにすべてをさらけ出すと。これが本当は一番いいんですけどね。それができようができまいが、もしくはグルがいようがいまいが、根本的な問題としては、われわれには常に母なる神がいらっしゃると。この母なる神の定義っていうかわれわれとの関係がね、もう一回言うけども、さっきわざわざわたしのお母さんをたとえに出して言ったけども、つまり、精神的にも現実的にも完全に信頼できる存在なんだっていうことです。で、完全に信頼できる存在だとしたら、さらけ出すしかないよね。さらけ出さない意味がないっていうか。
 つまりわれわれの中でちょっと信頼できない部分があったりとか、精神的な引っかかりがあったりとか、あるいは自分の頑固さがあったりして、人間関係の中ではいろいろぎくしゃくするとこも出てくると。でも相手が完全なる母だったら、ね。完全なる母なる神だったら、さらけ出さない意味がないよね? で、そのような存在をしっかりとまず――それを認識してる人にとってもしてない人にとっても、母なる神は母なる神なんだけど。少なくともそれを認識することによって、「ああ、わたしには母なる神がいらっしゃるんだ」って認識することによって、さらけ出せるわけだね。
 これは例えば懺悔の瞑想とかにも関わってくるわけだけど、あるいはわたしの好きなミラバイの「オージー」って歌もあるよね。オージーって、あれ何だっけ(笑)?――「主ハリよ、そのお姿を早くわたしにお見せください」と。あの歌とかもそうだけど、「主よ、あなたはすべてをご存知です」と。つまり母なる神、もしくは至高者でもいいんだけど、もともとすべて知ってると。もう隠せるものなんて何もないと。隠せるものなんて何もないし、すべてを完全に見抜いてるというよりは、自分以上に自分を知ってると。その喜びなんです。自分のことを完全に知ってくださってる、そして自分以上に自分を理解してくれてる存在が――存在っていうのも変なんだけど。まあ存在がいらっしゃる喜び。これを喜んでさらけ出すと。「ああ、わたしはもうあなたには嘘つかなくていいんですね」と。「あなたには自分をよく見せなくてもいいんですね」と。もちろんちゃんと努力しなきゃいけないよ。努力するんだけど、少なくとも今の自分をしっかりとさらけ出して、さらけ出した上で懺悔することは懺悔して、で、何の表面的な欺瞞性もなく、自分をいかに投げ出すっていうか誠実に突き進めるかっていう問題だね。で、その誠実にいかに努力できるかっていう部分は、やっぱりどちらかというと父なる神っていうか、主なる至高者が担当っていったら変なんだけど―――つまりわれわれは「ラーマ! クリシュナ!」とか言って、「わたしはあなたのしもべです!」と。「さあ、わたしはエゴを捨ててあなたの命にのみ従います!」って感じじゃないですか。それと同時に母なる神がいらっしゃるっていう安心感があるんだね。
 わたしはそのしもべの道とかが好きなわけだけど、なんていうかわたしはそういうのが好きだったから、もともとね。逆にその悲壮感を楽しむところもあるんだけど。悲壮感を楽しむっていうのは、「わたしは主のしもべとして、すべてを捨てて!」って、ちょっとこうヒーロー的になってる(笑)。「おれには何もいらないんだ! もうおれには何もないんだ!」みたいな感じで、そういう部分はそれで必要なんだけどね。まさにその部分を担当してるのが『神のしもべに』の歌みたいな感じだね。
 だからみんなバランス取るといいよ。『神のしもべに』を歌って、その後で『バクティーヨーガの歌』とか『ホーリーマザー』の歌を歌うと。そうするとバランスが取れるかもしれないね(笑)。つまり本当にわれわれは、もう妥協なき神のしもべとしてエゴを捨てて戦わなきゃいけないと。「一切自分の安らぎなど必要ないのである!」みたいなのをドーンと一つ持って、しかし同時に「しかし最初から最後まで、われわれを見守ってくださっている母なる神がいらっしゃるんだ」と。逆に言うと、だからこそわたしは――まあ変な言い方だけど、無茶ができるっていうか。突っ込めるんだね。
 で、その母なる神に対しては、もちろん至高者に対しても同じだけども、自分っていうのを完全にをさらけ出すっていうか。逆に言うと、その母なる神とか至高者にもさらけ出せないようじゃ、もう始まらないよね。でも逆に言うと、そのさらけ出すことによって始まるっていうか。さらけ出すことによって、やっと第一歩が踏み出せる。つまり偽の欺瞞性の修行ではない、本当の修行が始まるんだね。
 自分のマイナス面も含め、あるいは愚かな失敗も含め、全部さらけ出して、で、それをちゃんと自分でも認識して、そこから――そんなんではもちろん母なる神は自分を嫌いにならないし―――っていうか最初から分かってるから。ね。分かってるから、そのさらけ出すことによって自分の中の欺瞞性をなくしてね、本当の意味での第一歩を踏み出すというものですね。
 この話もそうなんだけど、大体そういう教えっていうのはいろんな大事なポイントがあるんだけど、われわれはなかなかそれに気づかない。あるいは一瞬気づいても忘れてしまう。だからね、変な話、いつも言うように教学ね、あとこういう歌とかもとても重要なんだね。例えばこういった今日の歌もそうだし、さっきも出た『バクティヨーガの歌』とか、あるいはミラバイの歌とか聞いてると、例えば「さらけ出す」みたいなのが出てくると。それによって「あ、そうだった」と。「わたしは自分を欺瞞性によって守っていたけども、至高者にすべてさらけ出して、自分の間違いをちゃんと認めて、ちゃんとまた自分を立て直そう」と。「それを許してくれるだけの大きな包含性が宇宙の母にはあるんだ」という気持ちになれると思うんだね。いいですか?

(質問者B)はい。あの、続きというか、それに少しスタイルとして知りたいなと思ったんですけど、例えばラーマクリシュナが示されたバクティのスタイルは、母なる神に対する姿勢が全面に出ているようなやり方だったと理解して大丈夫ですか?

 うん。ラーマクリシュナはね。

(質問者B)両方っていうこともあるんでしょうけど、どちらかに向けるときによって、ちょっと気分っていうかスタイルが違うっていうか、形がその人によって変わってくることもあると・・・・・・

 そうだね。ただ実際には、さっき言ったように父と母は一つである。ラーマクリシュナ自体は自分がそういうスタイルを見せて、でもみんなに対しては当然さまざまな説き方をしている。そこら辺がヒンドゥー教の中でも頭の固い人たちはね――これはラーマクリシュナの説法にもありますが――ある人はカーリーがすべてだと言うと。ある人はクリシュナこそがすべてだと言うと。あのさ、わたしもちろんクリシュナとかラーマとかヴィシュヌ系の神ってとても好きだし、まあカイラスもクリシュナとかラーマとかヴィシュヌ系の神を祭ることが多いわけだけども、一般的にはこのヴィシュヌ派って固い人が多いんだね。これはラーマクリシュナとかヴィヴェーカーナンダの話にもよくそういうのが出てくるんだけど、固いっていうのはハレクリシュナとかもそうだけども、「自分たちの神だけ!」みたいな感じがあって。「このわれわれの神を崇拝しないと駄目なんだ!」みたいな、「他の神は駄目なんだ!」みたいなことを言ったりする人が多いんだね。全員じゃないですよ。全員じゃないけども、ヴィシュヌ派にはそういう人も多いと。しかし、それはみんな分かってないと。つまりクリシュナもカーリーもシヴァも、みんな同じなんだ――ということをラーマクリシュナは言ってらっしゃる。そういう柔軟なベーシックな「至高者とは何ぞや」という、完全にそれを悟ってなくても、ベーシックなその理解がまず必要なんですね。そうすると、至高者が表わす父と母っていう二つだけではなくて、さまざまなパターンの柔軟性っていうかな、さまざまなパターンをわれわれの状況に応じて至高者が表わしてくださってるってことを理解できるようになる。あとは自分のカルマとかね、自分の前生からのいろんな縁によって、いろんな神のスタイルと出会ったり、いろんな神のスタイルに興味を持ったりするでしょうと。その中ではあまり固く考えずに、与えられたっていうか、今目の前にある自分がこれだなって思うものに全力を注げばいいっていうかな。
 だってラーマクリシュナも『ラーマクリシュナの福音』とか見てると面白いよね。もちろんカーリーが中心なんだけど、ラーマクリシュナは。でも読んでると、彼の祈りとかもさ、「カーリーカーリーカーリー! クリシュナクリシュナ!シヴァシヴァ!」とか祈ってるんだね(笑)。あるいは「バーガヴァタ! バクタ! バガヴァーン!」とかね(笑)。つまり「聖典! 信者! 至高者!」と(笑)。もうあらゆる至高なるものを祈りの対象にしてるっていうか。
 でもそれはわたしちょっと分かるような気がするんだね。つまり、一つなんです、結局は。至高なるものなんです。「ああ、至高なるもの!」―――その粗雑化された多様化されたものがいっぱいこのリーラーの中にあるわけだけど、でもこっちの方に目を向けてる人にとっては、みんな同じなんだね。状況に応じて変わってるだけであって。この至高なる純粋なる大もとの光に常に心を合わせると同時に、でも今条件に応じて現われてる今目の前のやるべきことに全力を注ぐと。そうなると、全力を注ぎながらも、これは唯一の至高なるもののあらわれに過ぎないから、あんまりこだわりなくいろいろ行なえるようになるんだね。で、その細かい話として今日の話とか、母なる神はこうですよとか、クリシュナはこうですよ、シヴァはこうですよっていうのをちゃんと学んでれば、その多様性がぶつかり合うんじゃなくて、柔軟に融合し合うような感じで、すごく利益のあるものと、知識となると思うね。そういう考え方をすればね。いいですか?

(質問者B)はい、ありがとうございました。

 ラーマクリシュナの一番弟子のヴィヴェーカーナンダとかはどちらかというと――これはイメージですけどね。イメージでいうと――まるでシヴァのように。あるいはね、彼は自分のことをハヌマーンだと思ってたみたい。ヴィヴェーカーナンダってすごく理性的で固いイメージがあるんだけど、実際はすごく純粋な人で、彼の子供の頃のエピソードとして、インドでは『ラーマーヤナ』の話をすると必ずハヌマーンが現われるっていう伝説っていうかな、言い伝えがあるんです。インドでは『ラーマーヤナ』と『マハーバーラタ』っていうのは本当にポピュラーな話なので、子供の頃によくそういうのを歌う人が来て、『ラーマーヤナ』の話とか始まるんです。そこにヴィヴェーカーナンダが行くと、「ハヌマーンいないかなあ?」ってきょろきょろしてたっていうんだね(笑)。その伝説を信じて、「『ラーマーヤナ』が話されてるからハヌマーンがいるかもしれない!」ってきょろきょろしてたと。そういう純粋なところがある。
 で、さっき言ったようにヴィヴェーカーナンダはすごい厳粛な感じなんだけど、でもサーラダーデーヴィーの前では子供のように振舞ってて―――あのね、ヴィヴェーカーナンダが最初アメリカに行くときに、結構迷ってたらしいんだね、最初はね。皆さんもヴィヴェーカーナンダになってみれば多分そう思うかもしれない。自分はラーマクリシュナの一番弟子といわれ、いろいろ学んできたけども、で、周りの人たちにも「アメリカに行って、われわれの真理を説いてきなさい」って言われてるけども、その希望もあっただろうけども、でも実際ずっとただインドを放浪してただけの自分がね、世に出てくっていうときっていろいろ不安もあったと思う。あるいはそれが正しいのかどうかっていうのもいろいろあったと思う。いろんな人に相談したりして悩んでたんだね。最後に彼が相談したのがホーリーマザーだったんだね。ホーリーマザーに、「心配するな」と。「師が、ラーマクリシュナが言ったことは必ず実現する」と言って励まされて、そこでやっと安心してアメリカに向かうんだね。完全にもうお母さんって感じだった。
 で、そのヴィヴェーカーナンダがアメリカで成功して帰ってきて、で、ホーリーマザーに言ったのが、「帰ってきました」と。「お母さん、この度はわたしは海をひとっ飛びで渡ることはできなかったので、船で行ってきました」って言ってるんだね(笑)。完全に自分をハヌマーンとみてるんだね。自分の師ラーマクリシュナがラーマで、自分はハヌマーンであると。つまり本当はね、ラーマの命を受けてスリランカにひとっ飛びで行ったように、ラーマクリシュナの意思を受けてアメリカにひとっ飛びで行きたかったんだけど(笑)、ちょっと行けなかったんで船で行ってきましたと(笑)。そういう純粋なところがあるんだけど。
 ちょっと話がずれちゃったけど、どちらかというとシヴァのような、あるいはハヌマーンのような、すべてを打ち砕き、カルマヨーガによって救済を実現させて行く! みたいな感じで人生を突き進んだんだけど、でも晩年になってちょっと違うことを言い出すんだね。
「わたしにとって、もうすべてがどうでもいい」
と。ね。
「人々の救済も、あるいはインドの独立も、あるいはさまざまなミッションの仕事も、もうどうでもいい!」
と。
「わたしにはマーしかいない!」
って言いだすんだね(笑)。ラーマクリシュナみたいになっちゃった(笑)、最後はね。
「わたしにはもうクリシュナもシヴァもどうでもいいんだ!」
と。
「お母さんしかいない!」
と。
「カーリーマーしかいない!」
って最後はなるんだね。
 でも実はもともと多分そうだったと思う。ヴィヴェーカーナンダはね。本当はラーマクリシュナと同じその境地にあったんだけど、でも仕事のために、つまり救済の仕事のために、まるでシヴァの化身のように、ハヌマーンの化身のように、カルマヨーガに励んだんだね。しかしある程度仕事が終わって、「ああ、もうわたしにはマーしかいません」と。「抱き取ってください」っていう感じでそのまま亡くなったわけですけどね。
 ちょっと話が広がっちゃったけども、いろんな場面場面に応じて、われわれにとって必要な神や、あるいは神のイメージっていうのは変わってくるわけだけど。だからそういう意味では、今こういった話を皆さんが聞いているのも、これは必要に応じてだと思います。皆さんに多分この知識っていうかフィーリングが必要なんだと思うね。これは将来か近いうちか分かんないけども、何かの役に立つんだとろうと。そういう感じに受け入れてったらいいと思うね。いいですか?

(質問者B)ありがとうございました。

 では最後にもう一回ホーリーマザーの歌を歌って終わりにしましょう。

(一同)ありがとうございました。

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