「身をもって経典を読もう」
【本文】
菩薩の誓いを保ち、大乗の意義に精通した善友を、たとえ生命にかけても、常に見捨ててはならない。
そして徳生童子解脱法門から、師匠に対する態度を修学せよ。ここで仏陀によって説かれたこと、および他で説かれたことを、経典の所説から知るべきである。
修学すべきことは、もろもろの経典に見られる。ゆえに、もろもろの経典を読め。そして虚空蔵経に根本の罪過を省察せよ。
またシクシャー・サムッチャヤは、必ず繰り返し見るべきである。何故なら、正しい行法がそこに詳しく示されているから。
あるいは簡単に、まずスートラ・サムッチャヤを見よ。そして聖ナーガールジュナの作を、第二に努力して読め。
そこに、避けるべきことと、なさねばならぬことが記されてある。ゆえにその学処を見て、世の人々の心を守護するために、修行せよ。
身と心の状態を間断なく省察すること、これがまさに、一言をもって言えば、正智の定義である。
ただ身をもってのみ、私は(経典を)読もう。口で読んで何の役に立とうか。
病人に対し、医書を読んで聞かせるだけで、何の役に立とうか。
【解説】
善友というのは、真理を実践するすばらしき友。そしてもう一つ、自分の師匠という意味でも使われます。
つまり菩薩の誓いを保ち、大乗の教えに精通した法友や師匠を、たとえ自分の命と引き換えにしようとも、見捨てたり、裏切ったりすることがあってはならないということですね。
徳生童子解脱法門というのは、華厳経の中にある教えですが、これのみならず様々な経典から、師匠に対する正しい態度を学びなさいということですね。
そしてとにかく、様々な正しい経典を読み、菩薩としてなすべきこと、なしてはならないことを学びなさいということですね。
シクシャー・サムッチャヤとスートラ・サムッチャヤというのは、ともにシャーンティデーヴァの作とされる論書ですが、わかりやすく和訳されたものはありません。シクシャー・サムッチャヤは、マイミクのBuSuKuさんが専門的に研究されているので、期待しましょう。
さあとにかく、それら経典をしっかりと学び、なすべきこととなしてはならないことを学んだら、世の人々の心を守護するために、修行しなさいと。
そしてこの「正智の守護」の章の終わりとして、その正智という言葉の定義が明確に示されています。
それは--身と心の状態を間断なく省察すること--だといいます。
そしてそれは、その後の文とあわせて考えても、あるいはこの章全体を分析しても、決して、単に「私は今歩いている」とか「腕をあげた、足を上げた」というような意味での自己観察ではありません。
そうではなく、いかに自分の身口意の動きが、教えとずれていないだろうか、教えどおりに生きているだろうか、それを省察し続けるということです。それが正智なのです。
そして最後のしめの一文も、とても印象的ですね。
病人に対して、医書を読んで聞かせるだけでは、何の役にも立ちません。実際に薬を飲ませたり、治療を行なわなければ。
同様に、経典を読んで満足しているだけでは、何の役にも立ちません。身をもって経典を読む--すばらしい言葉ですね。つまり、経典の教えを実際に実践するということです。実践しなければ、どんなにすばらしい経典も、何の価値もないのです。
そして繰り返しますが、いかに自分がその教えの内容を実践しているか、それを絶え間なく自己観察すること、これこそが「正智」なのです。
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