yoga school kailas

「解説『至高のバクティ』」第4回 「バクティ」④(3)

 だからいろんな工夫をしてわれわれは、いつも神のことを思うと。で、思うだけではなくてこの『ナーラダバクティスートラ』の前の方にも出てきましたが、もう本当に神の愛で頭がいっぱいであると。あるいは神と離れているのが耐えられないと。ここでいう離れてるっていうのはつまり、「今自分が神を悟っていないことが耐えられない」ということです。頭では「ああ、神よ」と思っているけども、それがまだ全然――つまりさ、何を言いたいかというと、皆さんは徳があり、縁があり、「ああ、神よ」というバクティの素晴らしさを少しは理解できる今は縁があると。しかしそれでもまだ皆さんの心はエゴでいっぱいだよね。
 わたしはよく冗談で言うわけだけど、皆さんの心の中を占める三つのものがあります。これは神、もちろんグルでもいいわけですけど、一応神にしましょう。神。それから衆生、つまり神とかじゃなくて周りの衆生ね。「周りの衆生に愛を向けなさい」というのね。「どれだけみんなのことを愛してますか」と。もう一つはエゴ。つまりエゴ、衆生、神。
 で、バクティの理想から言うと、もちろん一番目は神なんだね。なぜかというと、衆生というのも神の現われであり、あるいは神の息子達であって。だから実際には同じなんだけどね。神と衆生っていうのは同じなんだけど。でもまずは神に対する強烈なつながりを持つと。で、衆生に対する――つまり衆生も極論すれば神と同じであると。これはラーマクリシュナも言っているように、一人一人が神であると。だから衆生を救うというのは、「さあ、救ってやる」じゃなくて、「衆生の姿をした神に奉仕させていただいているんだ」と。そういう感覚で衆生を見ると。一番最後に自分のことを考えなさいと。神、衆生、エゴと。
 でも普通、逆なんだね。エゴ、衆生、神。また人によってはエゴ、神、衆生。しかも比率が半端ない(笑)。比率が半端ないっていうのは、九十九.九九パーセントエゴ。ね。で、○.○○五ぐらいで神と衆生と(笑)。
 でもこの、例えばですけどね、○.○○五パーセントでも神のことを思える、衆生のことを思えるというのは、これは素晴らしいです、実は。数字にしちゃうとちょっと小さいように考えるけども、例えば○.○○五パーセントだったとしても、皆さんがたまにでも「ああ、神よ」、もしくは「みんな幸福になって欲しいな」――これは素晴らしい。素晴らしいけども、理想からは遠いね。うん。だからこれをもっと比率を変えていかなきゃいけない。うん。「ああ、神よ」と。神で頭がいっぱいだと。それと同等なぐらい、神の一つのフォームである衆生の対する慈悲ね。あるいは慈愛。これで頭がいっぱいだと。で、まだ完全ではないからエゴも残っているかもしれないけど、そのエゴ自体非常に小さいんだと。これを、まだ理想ですけども、理想に向けて日々自分を鍛えなきゃいけないわけだね。つまりエゴがあったら「ああ、駄目だ」と。こうやって抑えていくっていうかな。
 さっき歌った「マハームニに捧げる歌」。あれはいろんな深遠な意味が込められているわけですが(笑)、その一つとして――これ、前も似たようなこと言ったけど、終わりの方で「もっともっとこのわたしを捧げたい」とあるよね。「あの御足にわたしを捧げたい」と。あの意味っていうのは実際は重層的な意味があるわけだけど、「このわたしを捧げる」――つまり「わたしが奉仕させていただきたい」とかね、あるいは「この身を捧げて道具になります」とかね、そういう意味もあるんだけど、それはちょっと補助的な意味で。ここで言いたいのは、「このわたしを捧げたい」――つまりそもそも「わたしって何?」っていう問題がある。つまり「わたし」って実はないんです(笑)。ということはどういうことですか? わたしってないのに、今は「わたし」って持っちゃっているんだね。
 で、これをですよ、これを例えばいつも言うように仏教とかジュニャーナヨーガとかでは、この「わたし」の否定に入る。「わたしとは何か?」ね。「肉体だろうか? 感覚だろうか? この表層の意識だろうか?」とか考えていって、すべて駄目出しをしてね、「いや、こうこうこういう理由でわたしではない」と。「じゃあ、わたしというものはないんじゃないか」っていうことをやろうとするわけだけど、バクティは違う。そもそもこの、どうしようもないわたしを捧げるわけです(笑)。つまり「わたし」っていう幻想をわたしは今持っていますが、これ要りませんと。なぜならこれはまさにに間違いであって。この「わたし意識」――これをエゴと言っているわけだけど――これがもうすべての苦悩の原因ですと。だからちょっと変な言い方なんだけど、「これを捧げものにします」と。
 捧げものっていうのは――いいですか、皆さんが祭壇に捧げるのと同じように、捧げるわけだから、当たり前だけど自分の取り分ゼロですよ。貸すんじゃないよ。「神さま、わたし貸します」じゃないですよ(笑)。どっちかというと皆さんには「貸す」という発想の方が実は潜在的には強いのかもしれない。例えば、「いや、今日は神に捧げますけど」みたいな感じね。実際には手放していないと。じゃなくて、手放さなきゃいけない。この「わたし」っていう感覚。「わたし、わたし、わたし!」ってもう「わたし」で頭がいっぱいなんだけども、「これ捧げます」と。「供物として捧げます」と。
 もうちょっとリアルに言うと、「こんなものいらないでしょうが、こんなけがれたわたし意識なんて神はいらないでしょうが、でもどうか供物として受け取ってください」と。「この中にはわたしが錯覚している喜びがいっぱい詰まっています」と。本当は苦しみなんだけど。本当はね、皆さんに言っているように――いいですか、ストレートに言いますよ。前も言ったけど、エゴって、百パーセント苦しみしか生みません。エゴっていうのは、よく言われるのはね、苦と楽、表裏だよという言い方をされる。でも違うんです、実は。百パーセント苦しみだと考えてください。この意味は皆さん考えてください(笑)。エゴは楽も苦もあるから駄目だって言っているんじゃないんです。エゴは百パーセント苦しか生みません。
 でも本当にエゴは最大の優秀な詐欺師なんだね。もうすごい詐欺師ですよ。例えば普通の詐欺というのはさ、ちょっと儲けがあるように見せてあんまり儲けがないと。でもゼロですよ、儲け(笑)。儲けゼロの取引をこっちにもう――完全不平等条約ね(笑)。つまり平等どころか百ゼロの取引を、まるで利益があるかのように見せつけているんだね。利益があるかのようにっていうのは、ちょっと利益があるんじゃなくて、まるで百ゼロに近いぐらいの利益があるかのようにわれわれに見せてくるんだね。でも本当はそれは苦しか生みません。でも「わたし」は今まだ馬鹿だから、無智だから、このエゴが「わたし」にいろんな喜びをもたらしてくれるように勘違いしている。それをまだ「わたし」は悟っていないから、まるでこの苦の塊であるエゴが喜びの塊に見えてしまう。それを捧げるんだね。「本当は実際は苦の塊のゴミみたいなもんだってことはわたしは分かっていますが、どうかお受け取ください」と。「もうわたしはいりません」と。いりませんというか、本音では欲しいと思っているんだけど、つまり「これは駄目だ」って理性ではなくて、「もう、あなたしかいませんから、わたしは」と。「どうかこれを受け取ってください」という気持ちでエゴを捧げるわけですね。ここでバクティの、なんていうかね……瞬間的な解放があるんだね。
 だからこれさえ――つまりこの愛の道、神への愛の道、あるいは神への謙虚なというか、あるいは神の前では――まあ神は完全であって、神の前ではわたしは何の価値もないという気持ちとかね。こういった気持ちを土台に、この「お受け取りください」という気持ちが本当にできたならば、例えば分析によって、あるいは行法によって到達できる遥かなる境地に、一瞬で到達できるかもしれない。つまりこの方面からの、神への愛という方面からのアプローチによる、エゴの破壊が生じるんだね。
 で、これは最終的な破壊はもちろんこれも理想ですけど、段階的にもこれは起きる。つまり段階的にこの例えば――具体例としてはいろいろあるでしょうけど、いろんな場面場面において自分のエゴを神に供養するという気持ちで、エゴよりも例えば神の教えであるとか、エゴよりも神の意思と思えるものを取り続ける。これによって、やってることは神への愛の奉仕なんだね、神への愛であって神への奉仕なんだけども、現実的に自分のエゴがどんどん崩れていくと。この方向性がバクティヨーガなんだね。
 はい、ちょっと今いろいろ言いましたけども、とにかくいろいろな意味でわれわれが神への完全なる明け渡し、あるいは完全なる愛、あるいは完全なる帰依というかな……帰依とはつまり文字通り完全に神をよりどころにするっていうか、これができるかどうかっていうのは、とても重要なポイントなんだね。
 『母なる神』の勉強会でも何度も言っているように、それは実際は容易なことではない。容易なことではないというのは、なんていうかな、つまり弱い人はできないんだね。弱い人ができないというのは変な言い方だけど、心が弱い人が神にすがるって気持ちでは駄目なんですね。だからオーロビンドの言い方をすると、「力強い従順」という言い方をしていますけども、自分の逃げではなく、弱さではなく、そうじゃなくて堂々とした力強い明け渡しなんだね。こうじゃないとできないっていうか。
 だからそれがもしできないとしたら、それができるために日々――つまり単純に「神よ」と言っているだけじゃなくて、日々自分の心の弱さを鍛えるとかね、意志を強くするとか、あるいはさまざまなカルマの浄化に耐えてカルマをきれいにするとかね、そういったことを繰り返すことで土台を作っていく必要があるね。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする