yoga school kailas

「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第13回(13)

◎サーキャ・バーヴァについて

 はい。じゃあだいぶ今日は長くなっちゃったんで、最後に、全体的に質問があったら質問聞いて終わりにしましょう。
 はい、今日の話と関係があってもなくてもいいので、何か質問その他ある人いますか?

(S)以前の勉強会のアドブターナンダのところで、「神と結ぶ関係は三つある」といって、「わたしは神」と「わたしの神」と「神のしもべ」って三つあったと思うんですけども、自分は「わたしの神」が一番しっくりくるような気がするんですが、その場合は……

 ん? わたしの神って例えばどういう感じ?

(S)わたしのクリシュナ早くここに来てって。

(一同笑)

 それはね、それはいいけども、それはオッケーだけど、その背景には、「わたしは神のもの」ね。アドブターナンダが勧めているやつね。それがやっぱりなきゃいけないんだね。その上での「わたしのクリシュナ」と。これだったら全然かまわない。逆に言うと、例えば「わたしのクリシュナ」、これはこれでオッケーです。で、それが、ちょっとこう欠けのあるものにならないように、まずは「わたしは神のもの」っていう前提が必要なんだね。
 つまり「わたしのクリシュナ」っていう境地にある人も、もちろんそこはもう乗り越えてるんです。乗り越えているっていうかベースにはあるんだね。
 何回も言っているけど、バクティヨーガ・サーダナーの教えにあるね、ダーシャって言われる、つまり「しもべのバクティ」っていうのがある。このしもべのバクティっていうのは、いろいろある中の一つじゃないんです。どのバクティにいく人も、絶対このしもべのバクティっていうのはベースには持たなきゃいけないんです。これを持った上で、例えば「わたしのクリシュナ」みたいな感じになるんだね。
 つまり例えば――例えば例をあげるとさ、ブラフマーナンダみたいな、ああいう「クリシュナの永遠の友達」みたいのがあったとしても、その根底はもちろんしもべなんですよね。根底にあるのはクリシュナのしもべであると。で、クリシュナのしもべであって、クリシュナのためだったら命もいらないと。それぐらいの全てを捧げている上で、さらにその上に乗っかっている感覚として――あれはいわゆるサーキャっていうわけですけども。友情に似た感覚っていうか。そういう感じで、「ああ、わたしの最愛なるクリシュナよ!」ってならなきゃいけない。それが、表面だけ「最愛なるクリシュナよ」って言って――クリシュナが振り向いてくれなかったら「じゃあいいや」みたいなところとかね(笑)。あるいはクリシュナのために命なんて投げ出せない。つまりそれが現世的な世俗的な、エゴイスティックな――エゴイスティックな恋愛とか親子感情でもあるよね。「わたしの何々ちゃん」――で、この裏側にエゴがある場合、相手のために自分を投げ出すっていうのができない。ただエゴで「わたしの」――これは駄目なんです。だから背景に、何度も言うけど「わたしは神のものである」と。「わたしは神の道具であって、神がもし――ミーラーバーイーが言うように、たとえ奴隷として売られようとも、それが神の意思ならば全くそれは喜びである」ぐらいの投げ出し感の上に、「わたしの神よ」なんだね。だからそれが自信があるんだったらいいけどね。
 でもアドブターナンダが言ってらっしゃるのは、われわれの心っていうのはいつもそういったエゴに逃げたがるから。あるいは傲慢さが生まれちゃうから。だからそれを自分でチェックしてたらいいね。
 だから、まあS君の場合はそれはそれで両方持ってたらいいと思う。つまり「わたしのクリシュナ」っていうイメージをいつも抱きつつ、でも同時に自分はしもべでもあると。
 あのさ、「リトルクリシュナ」のアニメとか観ても分かるでしょ? あそこでサーキャといわれる友達っていうのは――まあつまりサーキャの感情っていうのはね、『バクティヨーガ・サーダナー』にも書いてあるけど、なんていうかな、恐れがないんだね。恐れがないっていうのは、普通で言ったらさ、客観的に見たらすごいことをクリシュナはやっているわけですよ。例えばなんか巨大な鳥のお化けが現われたりとかね。巨大な蛇が現われたりして、で、それをクリシュナはバーンとやっつけるわけだよ。そうすると友達たちは、「やったね! クリシュナ!」みたいな感じで(笑)。

(一同笑)

 「すごいやあ!」みたいな。もっと驚けって感じでしょ(笑)?

(一同笑)

 普通だったら、普通の感情だったら、「ははー」って感じですよ。「あなた様は!」「いや、わたしはもうあなたに近づけません」と。「あなた様はそんな偉大な方だとは知りませんでした! ははー」って感じになるけど、彼らは「やったね!」みたいな感じでこう肩を抱き合って(笑)、「すごいや!」みたいな感じで。これがサーキャなんだね。
 でも彼らは、あれ見たら分かるけども完全にしもべでしょ? ある意味。いつもクリシュナがリーダーとなって――アニメでも面白いけどさ、なんだっけあれ、なんかの悪魔が現われたときに、「大変だ! クリシュナ! なんとかして!」って言って、「なんとかするから、じゃあみんな、目をつぶって伏せてなよ!」って言ったら、「分かった!」とか言って伏せるわけだね。完全に言うことを聞いている(笑)。つまり、すべてクリシュナの言葉は自分にとって絶対であると。すべて投げ出すっていうのは、そんなのはもう当たり前になっているんです。彼らっていうかあの境地はね。その上で、恐れなき友愛みたいな感じっていうか。神に対してもその、恐れなきっていうと変だけども――まあ別の言い方をすれば、驚かない。神の化身がね、どんな奇跡を見せたとしても――まあ言ってみれば、空飛んだって、あるいは分身を出したって、全然驚かないんだね。驚かないっていうか、「すごいやあ!」みたいな感じでね(笑)。「すごいやクリシュナ!」みたいな感じで終わってしまうっていうかね。あのゴーピーたちもそうだし、あと村のお母さん方もそうだね。そんな雰囲気の世界なので。それはそれでかまわない。
 で、もう一回言うけども、それが似非サーキャにならないようにするには、背景に、基本はしもべだと。それは当たり前の話であると。それを忘れないように念正智すればいいと思う。

(S)ありがとうございます。

 あの、何度も言うけどね、バクティのいろんな様相っていうのは、よく段階的に書かれているけれども、実際にはあれ、段階っていうよりはタイプです。
 わたしはね、わたしは今言った、確かに「わたしのクリシュナ、友よ」みたいのも好きなんだけどね。ラーマクリシュナとかもいろんなモードで修行してたみたいだけど。やっぱりわたしは、まあラーマクリシュナもそうだけどさ、個人的にはしもべが好きですね、やっぱりね。それはタイプがあるから。皆さんは皆さんのしっくりくるのでかまわない。でも、しっくりくるのを行くときも、何度も言うけどね、それが似非的なものにならないように、ちゃんと基本を押さえた上で、しっくりくるムードをバクティで進めていったらいいね。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする