「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第12回(5)
◎二重の意識
【本文】
チャンドラガルバパリプリッチャ一(月蔵所問経)にはこう説かれる。
「究極の意味の真理は無上の最正覚であり、小乗の教えと同じではない。 便宜的・限定的真理によっては、無上の最正覚を成就することはできない。たとえばそれは、火花によって大海を干しあげることができないようなものである。
このように、便宜的・限定的真理によっては、自らの煩悩の大海を干しあげることはできない。いわんや他の衆生はなおさらである。」
アールヤクシャヤマティニルデーシャ(聖無尽意経)にはこう説かれる。
「菩薩の方便と智慧とは何か。
瞑想をしているとき衆生を見て、心に大慈悲を起こすのが方便である。 そして静かな場所で正観に入るのが智慧である。
また正観に入るとき大慈悲とブッダの叡智を教示するのが方便であり、 無住処における瞑想が智慧である。
正観に入るとき、すべての法を受け取るのを見ることが方便であり、 法界には差別がないと瞑想することが智慧である。」
はい。これはつまり空の教え、あるいは究極の智慧の教えね。これも何度も言っていることなんで、あまり言葉を追っかけてもしょうがないので、おおまかなことだけ言いますよ。つまり法には、あるいは修行には、智慧と方便と二つありますと。で、この方便っていうのは別に――まあ一般に言われるところの方便っていう意味じゃなくて、この限定された世界における法っていうことですね。
いつも言うように、究極の智慧にわれわれが目覚めてしまったら、そこにはもちろん輪廻自体が存在しない。まあ般若心経の世界だね。一切はないと。まあ実際は「ない」っていうのもちょっと正しくないんだけど、でもまあわれわれが感じているようにはないと。
例えばさっきの話で言ったら、「わたしの愛する衆生が苦しんでいる」――でもわれわれがもしパッと悟ってしまったら、そもそも地獄もないっていうことに気付く。でもここで問題は、確かに地獄もないんだが、われわれがレベルをこの輪廻に合わすと、確かに地獄で苦しんでいるです。だからこれは放っておけないっていう発想なんだね。だからこの二重の意識がわれわれになきゃいけない。つまりこの輪廻にアクセスしたときに、目を、焦点を合わせたときにある現実みたいなものがあって。でも究極のリアリティからすると、一切はこの――今の瞬間もですよ。今の瞬間も――例えばじゃあわたしが言うとしますよ。わたしが、一つの真理としてね、「はい、皆さん、ここにいる全員が今この瞬間も仏陀ですよ」と。これ真理なんです、本当はね。今この瞬間仏陀っていうのは、みんなが頑張って仏陀になるんじゃなくて、ずっと仏陀なんです、もともと(笑)。あるいはずっと真我なんです。変わってないんだね。ただ錯覚しているだけであって。錯覚しているだけで変わっていないから、別にだからいいんだって言っちゃえばいいんだってなっちゃう。――でもそれじゃ困るでしょ? 例えば皆さんが、「先生、ヨーガ教えてください」って来て、わたしが「うーん……みんな仏陀だからいいや」って(笑)。
(一同笑)
「修行しなくていいよ」と。「みんなだってはるかな過去から、今も、そして永遠に皆さんは真我ですから」――それは真実です。真実だけども何の救いにもならないよね。うん。何の救いにもならないし、そのような――皆さんが頭でそれを聞いたとしても、それは非常にその、机上の空論っていうか。まあ確かにかっこいい言葉ではあるけども、全く皆さんの心に影響を与えない、上滑りするただの言葉に過ぎない。だからいつも言うように、この二つの真理っていうのがあって。で、この二つの真理っていうのはまさに車の両輪のように、あるいは右目と左目のように、両方を同時に修めなきゃいけないんだけど。でも、どっちかに偏るとしたら、方便に偏った方がいいんです。その方が実質的だからね。でもまあ理想的にはこの智慧と方便、両方を持たなきゃいけないんだね。
つまり、現実的に目の前にあるさまざまな状況に対処する方便の教え。あるいはさっきから言っている慈悲も方便に入るわけですけども。現実的に苦しんでいる人を放っておけないので、現実的に自分のカルマと戦って頑張る教えが一つ。しかし本当のこと言っちゃうと、一切は空なんだよねと。あるいは一切は幻なんだよねとか、あるいは一切はバガヴァーンなんだよねとかいう、もう一つの教えね。
で、これを、智慧ある人はですよ、両方持ってください、両方ね。頭が固いとよく分からないかもしれないけど、まあ皆さんならたぶん分かるかもしれない。両方同時に持つんです。両方同時に持つっていうのは、つまり現実的に目の前のカルマと戦い、あるいは目の前の苦しんでいる人を救う作業をすると同時に、でも一切はブラフマンであると。でも一切はバガヴァーンであると。一切は空であるっていう、そのベーシックな、なんていうかな、認識っていうか、見解は持ち続けるんだね。
もちろんこの空の教えの方は、まずは言葉から入って、だんだん修行を進めるごとに本当に悟りに近付いていきます。これはこれで追求すると。で、何度も言うように、同時にもう一つ側の、まあ慈悲の教えっていうかな、これをしっかり固めていくと。あるいは日々やるべきことをしっかりやっていくと。この二つが必要だね。
例えばさ、この間の勉強会で言ったような、たまにわたしが言う「本当のことを言うと、全部どうでもいいんですよ」――これなんかまさに空の教えですね。本当の本当の本当のこと言うと、一切はどうでもいい。ね(笑)。あるいはそうだな、うちの本でいうと、『無明を超えて』のⅡにある『アシュターヴァクラ・ギーター』とかもそういう教えだね。本当のこと言うと一切はなんでもいいっていうか。究極的には真我しかないから、みたいな、その一つの教えね。で、それを、何度も言うけども、ベースに置くんです。われわれの心のベースに置く。で、その上で現実に対処するんです。
で、これを本当にやっている人がいるとしたら、そうですね、逆にその現実の対処自体が非常にスムーズになります。なんでかっていうと、とらわれがなくなるから。
あの、ちょっと変な話だけど誤解を恐れずに言うとね、もともとどうでもいいって思っているから(笑)。だからとらわれなくできるんだね。もともとどうでもいいと思っているから、いろんな引っ掛かりとか躊躇とかなく、なすべきことを淡々とできるようになるんだね。だからこの二つの意識を同時に持てたら最高ですね。
で、結局その大乗仏教っていうのは、この方便としての慈悲の教え、そして一切は空であるっていう究極の智慧の教え、で、もう一つはバクティ、信仰の教えだね。この三つが大乗仏教の柱になっていると言ってもいいね。つまりベーシックな、まず信仰があって、そして究極的な一切は空であるという教えがあって、そしてこの現実的な世界へのアプローチとしての慈悲の教えがある。この三つをいかに高めるかっていうか。
特に慈悲と信仰っていうそのベースが一番大事だね。で、まあ可能ならば、一切は空であるっていう理解も増しながら、この慈悲と信仰の教えを高めていくわけですね。これをもし皆さんが、さっきから言っているように頭で理解するんじゃなくて、それが自分の生きるベースであると。あるいは自分の血肉そのものであるっていうぐらいになっていったならば、それはここでずっと説かれているテーマである、「大乗を修め取る」――つまり大乗の教え、大乗のダルマっていうものを自分の血肉にすることになるっていうことですね。
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