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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第11回(4)

◎足ることを知らぬ供養と尊重

 はい。で、三番目が、「法を説く清浄な師を尊敬することである」――まあ、これは書いてあるとおりですね。法を説いてくださる清浄な師を尊敬すると。
 で、四番目も似たようなことですが、「如来の境地に住する者、あるいはニルヴァーナに至った師を供養し、尊重することに足ることを知らない」と。つまり自分の師匠、あるいは、まあ師匠かどうかは別にして、如来の境地に至った者――これをしっかりと尊重し、あるいは尊敬し、それに足ることを知らないと。足ることを知らないっていうのは、満足しないっていうことだね。つまり、「ああ、結構尊敬した。結構、まあ尊敬したからいいかな」っていうんじゃなくて(笑)。

(一同笑)

 「まだまだ尊敬が足りない」と。「おれは全然傲慢で、全然まだ尊敬できていない」と。だからまさにここはバクティヨーガの発想でいいんだけどね。師やあるいは主、つまり偉大なる完全なる至高者や、あるいは仏陀方、あるいは自分の師匠――こういった者たちを完全な存在と見て、いくらわたしが頭を下げても下げきれないと。だからインドでは御足って言い方するわけだけど。「わたしは御足の塵にさえ至らないほどのものだ」と。あるいは、「師のしもべのしもべ」とか言い方もよく出てくるんだけどね(笑)。「わたしは師のしもべにも至れないほどの愚かな者だ」と。だから「しもべのしもべ」だと。ね(笑)。師のしもべをやっとやってる人の、さらにしもべぐらいの価値しかないんだと。「だからどうかわたしを働かせてください。お受け取りください」と。この気持ちを持ち続ける。
 これはもちろん、ベクトルを定めることになるね。つまりこのような強い尊敬、強い――尊敬っていうのはベクトルだからね。簡単に言うと、人間は尊敬したものに近付くから。あるいは、尊敬したものになるから。将来ね。うん。もちろん尊敬して、それを努力しなかったら駄目だけど、当然さっきから言ってるように、不放逸に努力するっていう前提の上でね、尊敬してるそのものを尊重し、尊敬し、足ることを知らないと。このバクティ的なその心の方向性をしっかりと定めることによって――これはさっきの慈悲行とはまた別のベクトルとして、つまり偉大な完成者を常に心に思い、尊敬することによって、それに近付くっていうことですね。

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