「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第四回(6)
はい。で、次に今度は逆のこととして、「衆生に対して目を布施するよりも、信をもって菩薩のお顔を見ることの方が大きい」とか、あるいは「すべての衆生を牢獄から解放するよりも、菩薩に信を持ち、お顔を見、讃嘆することの方が、はるかに徳は大きい」とかね。これもまあさっきの逆の話ですね。
目の見えない人に目を布施する――まあ、現代ではアイバンクとかあるけどそういうこととか、あるいは牢獄に繋がってる人を解放する――これはもちろん素晴らしいことですよね。素晴らしい徳になる。しかし、ちょっと極端なことを言うとですよ。極端に言うと、目の見えない人が目が見えるようになったからといって、解脱はしないよね。あるいは、輪廻から救われるわけではない。あるいは、修行するわけでもないね。牢獄に繋がれてる人が解放されたからって、まあ修行するわけではない。逆に、繋がれてた方が修行する人がいるかもしれない(笑)。極端に言えばね。まあ、なんかよく言われる――よく言われるのかどうか分かんないけど、昔、聞いたことのある話っていうか……あれ、なんだろうな、マンガで読んだのかな? 男が成長するための三条件っていうのがあって。それは「牢屋に入ることと、大病と、悪妻を持つことである」って話があって(笑)。マンガで読んだのか忘れたけど、「ああ、なるほど」って思ったんだけど(笑)。そういうなんていうかな……悪条件、悪環境にいてこそ、こう、心が鍛えられるね。まあもしくは真剣に生きなきゃいけないって思って成長するっていうこともあるよね。だからこれはケースバイケースなわけだけど。だから単純に環境的に、例えば――まあもちろん、素晴らしいことですよ。例えば、貧しい人を豊かにしてあげるとか、あるいは病気の人を治してあげるとか。それは素晴らしいけども、でも完全にこれはケースバイケースですよね。
病気なんかそうだけど、わたしも、そうだな、まあ大病はしなかったけど、例えば喘息だったりとかね、あるいはちょっと肺炎みたいなことにもなったことがあるし、何度かそういうちょっとこう――まあ大病って言えるのかな? そういうその苦しい病気を経験したことが若いときとかあったけども。子供のときとかもそうだけどさ、なんか謙虚になるよね、そういうときってね。なんかよく分かんないんだけどさ、そういう病気のときってさ、「ああ、ごめんなさい、ごめんなさい」ってこういう気持ちになるんだね。何がごめんなさいなのかよく分かんないんだけど(笑)。こう、うなされながらね、「ごめんなさい、本当にごめんなさい」っていう気持ちになったりする。ね。それによってちょっと、まあその人にそういう種子があればね、「ああ、ちょっとなんか、もうちょっと真剣に生きようかな?」とかね、「もうちょっと謙虚に生きようかな?」って思う人もいるかもしれない。もし、仮にこういう条件が整ってるとしたら、その人は病気だった方がいいです。もうちょっと病気が長く続いた方が、その人が救われたっていう可能性はなきにしもあらず。これはもちろん、何度も言うけどケースバイケースですよ。ただ、そういうのは抜きにして――つまり、修行とか解脱とか抜きにして、肉体の安楽とか現世的な幸せだけを考えたら、当然、貧しい人を豊かにするとか、あるいは病気の人を治すとか、それはもちろん素晴らしいよね。あるいは、牢獄に入ってる人を自由にするとか。それはまあ素晴らしいことだよね。だから、それはそれでとても徳になりますよと。しかし、それ以上の徳になるのは、当然自分が修行して人々を救うとか、あるいはそうですね、相手を励まして修行させるとかね。あるいは、人々にそういう輪廻から解放される本当の意味での安楽に向かう教えを与えるとかね。当然そっちのベクトルの方が徳になるわけだね。
はい、で、話を戻すけども、信を持って菩薩のお顔を見るとか、あるいは菩薩を讃嘆するとか、これはさっき言ったことと逆で、それによってわたしの心、自分の心に素晴らしいベクトルが生じる。ね。そしてもう一つは、まあ実際にその讃嘆した場合は、それが周りにも伝わった場合は、周りにもそのようないい影響を与えると。つまり自分及び周りが、現世的なものではなくて、解脱とかあるいは菩薩の道とかにベクトルがこう向かうわけですね。だから、その価値っていうのは計り知れないと。誰か――つまり世界中の人が病気から解放されることよりも、あるいは世界中の人が牢屋から解放されることよりも、ね、あるいはもっと言えば、世界中の人が金持ちになることよりも、一人でも二人でも輪廻から解放されると。そっちの方がもちろん価値は大きいわけだね。だからその方が素晴らしいですよっていう話ですね、これはね。
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