「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第六回(5)
【本文】
④心に禅定を生じても、再び心が乱れることは、魔事である。
はい。これはこのままですね。まず「禅定を生じても」って書いてあるのは、つまりその、いい瞑想状態。サマーディや、そこまでいかなくても非常に寂静な瞑想状態が生じましたと。しかし再び心が乱れる。これはまあ瞑想中に乱れるともいえるし、あるいは日々ね、あるときはいい瞑想に入れるんだけども、あるときは入れないと。で、これは魔事ですと。
つまりその、バロメーターですということですね。つまりその、全然瞑想に入れなかったときに比べたらいいけども、瞑想に入れるようになりましたと。しかし入れないこともあると。あるいはその、ずっと入れたのが最近入れないと。これはその、魔の働きが迫ってきてる一つの何かバロメーターですよということですね。
まあこれは禅定ってここで書いてあるけど、もちろん禅定だけじゃないよ。禅定だけじゃなくて、これは皆さんが自分で自分をチェックしなきゃいけないわけだけど、例えばね、修行に対する喜び、あるいは神への愛における喜び、そういうのが生じてるときっていうのは、心がとてもすがすがしく、あるいは歓喜に溢れていると。しかしそれが、「あれ、最近生じてないな」と気付いたら、それはなんらかの魔の働きが生じている可能性がある。
もちろんね、段階的、進歩的な意味で壁にぶつかっているという場合もありますよ。次の段階に行くために壁にぶつかっていて、ずっとその闇の中にいるっていう可能性もあるけどね。それはその、いろいろ自分で状況を見て判断しなきゃいけないけども。
でも今言ったように、単純に言うと、例えばバクティヨーガだったら神への愛で満ち溢れる思い、これはずーっとなきゃいけないし、あるいは瞑想に関してならば、その深い瞑想の素晴らしい状態、これにいつでも入れなきゃいけない。それがそうなってないとしたら、それはなんらかのミス、なんらかの魔の働きがあるんじゃないかって考えなさいっていうことですね。
はい、次いきましょう。