「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第五回(8)
【本文】
◎魔事
菩薩が陥る危険性がある魔事(まじ)は、プラジュニャーパーラミターにこう説かれている。
「菩薩がある段階の悟りを得たとき、しかるべき名が与えられる。
彼はまだ不退転の菩薩としての性質を完成していないにも関わらず、自分はその名のとおりであると慢心を生じ、他の菩薩を誹謗する。それによって智慧から遠のくのである。そして素晴らしき師や法友を友とせず、悪友の仲間になって、小乗の修行者の境地にとどまる。
慢心こそは堕落する根本罪であり、その罪は重い。」
はい。はい、ここから「魔事」っていうパートに入りますが、魔事っていうのは、これは細かく定義するのは難しいんだけど、つまり魔の働きね。つまり、われわれは修行が進めば進むほど、あるいは進んでない段階でもね、いろんな魔の働きがやってくると。で、これは、この話っていうのはいつもいろんな形でしてるけども、つまり、なんていうかな、パターン化されてないんで非常に難しいんですね。人によって魔の働きっていろいろ違った形でやってくる。だから、こうですよって心構えをしてても違う形でやってきたりするから、非常に難しいんだけど。その魔事についていろいろ書かれているところですね。
はい。で、まずここで出てきたのが、「菩薩がある段階の悟りを得たとき、しかるべき名が与えられる」。で、そこでまだね、完成してないのに慢心をもって他を誹謗したり云々って書いてあるけども、これはさ、例えば今の、そうですね、チベット仏教でも、あるいはヨーガの派でも、別に悟ってなくても入門しただけでよく名前をもらったりするよね。例えばチベットのなんか帰依の儀式を受けたら、「ドルジェなんとかなんとか」とかものすごいなんか、言葉にしたらね、「ヴァジュラの仏陀の何とかの覚醒」みたいなすごいなんか(笑)、「ええ!?」みたいな名前もらったりとか。あるいはもちろんヒンドゥー系でもね、その祝福を受けたりするとすごい女神とか神の名前をバーンってもらったりする。ね。で、それで慢心を生じる人がいるかもしれない。あるいはね、つまりここで何を言いたいのかっていうと、そうだな、これもいろんなパターンがあるんだけども、例えば今言ったみたいに、例えばなんか入門して名前をもらったとするよ。しかもその名前がすごくいい名前だったとするよ。で、慢心が出ると。でも、客観的に見たら分かると思うけども、別にさ、その人何も変わってないよね、まだ(笑)。ね。これから変わるかもしれないけど、別に名前をもらったっていうだけであって何も変わっていないです。あるいはね、いわゆる例えば儀式とかもそうです。伝統的なチベット仏教にしろ、あるいはヒンドゥー系にしろ、イニシエーションとかいわゆる儀式をすごく大事にするわけだね。そのある入門の儀式とかやって、で、いろんな瞑想法とか伝授されて。で、そうすると、それを受けた本人はすごく自分が何か変わったかのような、あるいは偉大な境地を得たような錯覚に陥る。もちろんそれは伝統は伝統で素晴らしいので必要な部分もあるんだけども。
ちょっとこういうこと言うと危険な言葉になるかもしれないけども、わたしのちょっとフィーリングで言うけどね、わたしのフィーリングで言うと、少なくとも現代においては、ちょっとね、そのような伝統宗教とかの伝統的な儀式とか、あるいは伝統的な形式的な修行とかっていうのは、害かな?っていう感じがするね。つまりあまりにも形式化されてしまって、あまりにも様式化されてしまったがゆえに、ちょっとこう神聖さを失ってしまってるっていうか。で、それによって心にとらわれが生じ――あの、わたしはよくそういうタイプの人を見てきたわけだけど。つまり自分の宗派を――それはヨーガ系にしろチベット系にしろね、自分の宗派を信じすぎるがゆえに――それは本人にとってはいいことなんだけどね。自分の宗派にのめりこむっていうのは。それによって他者を批判したりとか、あるいは例えば「いや、おれはこのようなイニシエーションを受けたんだである」と。で、「それを受けてない者っていうのはまだそのような境地には至れないんだ」とかね。それは本人がそれを信じるのはもちろんいいことなのかもしれないけども、そうやって他者を批判する人たちがよくいると。で、その伝統宗教のイニシエーションにしろ、さまざまな儀式にしろ、すべては方便なわけだね。方便っていうのはそういう、あるスタイルをとることによって速やかにいろんなその障害を取り除いて、達成を早めるための方便にすぎない。つまり絶対的なものではない。でもその方便が善なる聖なる方便として使われず、魔の方便に悪用される場合があると。悪用されるっていうか、つまり魔に悪用されてしまうと。そうなると、つまりここに書かれているような慢心の罠に陥ってしまう場合がよくあるんだね。
これはだから、今言ったことっていうのは一例であって、さまざまなパターンがある。だからもう一回全体的なことを言うとね、われわれは――いいですか?――本質的ではない、何も変わっていない、しかし「概念」とか「名前」とかに弱いんだね。だから名前とか概念を与えられたり、あるいはそのような状態になったと錯覚したときに、グワーッて慢心が出る。それはまさに今言ったような、誰かから修行者名をもらったとか、あるいは何かの儀式を受けたとか、あるいは何かの階級を受けるかもしれない。例えば、まあ、例えばだけどね、お寺に入ってある程度の修行を終えて、「じゃああなたはなんとかなんとか阿闍梨です」とかこう階級を受けたとするよ。じゃあ今日その阿闍梨ですとか言われたとして、じゃあこの阿闍梨って言われる前とあとで何か変わってんのかと。もちろんそのためにやった修行によって変わった部分ってあるかもしれない。でも、逆にいうとそこだけを信用するべきであって、本当にわたしは修行によって何か心に変化が生じたんだろうか?っていうところだけを信用すべきであって。何か、ある修行団体から、例えば「なんとかなんとかインド公認インドヨーガの三百時間終了」とかね、そんなのはなんの――それで変わったんですか、なんか、と(笑)。ね。
よく、あの――こないだある地方のヨーガ講習会に来てる人から、「今巷にはヨーガ難民が多い」っていう話を聞いたんだけど。ヨーガ難民が多いっていうのは、一生懸命ね、つまり志をもってヨーガの先生を目指して頑張っていろんなインストラクターコースを受けて――もうネットとか見てもいっぱい書いてあるでしょ、いろんな、ヨーガの先生。「なんとかなんとか三百時間終了」とか「なんとかインド公認なんとかセンター公認インストラクター」とか、いっぱい肩書はもらったと。でも、それをある程度終えたあとに、「で、どうすりゃいいんだろうか?」と(笑)。つまり、肩書は増えたが別に変わっていないと。
でも逆に言うと、こういう不安になる人は、まだましな人です。こないだもわたし、あるところでそういう相談受けたんだけど。ある程度そういうの取ったけども、でも、「え、まだ自分なんかが教えていいんだろうか?」っていう不安があると。こういう人はまだまともな人です。つまり自分がまだ変わってないっていうことを理解しているわけだから。だからそうじゃなくて、なんの実態もない肩書や、あるいは儀式や、あるいは、つまり概念的なものね。これによってわれわれは、本当の意味で自分の成長とかが為されていないにもかかわらず、慢心を持ってしまう。でもこの心の働きの裏側にはですよ、傲慢さがあるわけだけど。裏を返せば怠惰さ、あるいは求道心のなさがあるんだね。
これも前から何回も同じこと言ってるけど、ちょっとわたしのことで言うと――ちょっとわたしの場合は違うんですけども、わたし中学生ぐらいから修行しててね、高校生ぐらいのときに――何回か言ってるけど、すごくいきなりね、神秘体験がいっぱい始まったことがあったんだね。ブワーッてもう体中が光の塊になったりとか、あるいは意識が無限に広がったりとか、あるいは夢と瞑想と現実がもうごっちゃになって分かんなくなったりとか。あるいは瞑想してたら梵字が見えたり、チャクラが見えたりとか、いろいろこう突然始まったんだね。で、そのときに自分としては驚きがあって。で、一瞬やっぱり、「あ、おれってなんかかなり高い段階を達成したのかな?」とかね、あるいは「おれは偉大な聖者の生まれ変わりかな?」とかね(笑)、思ったりもしたんだね、一瞬ね。例えばその、自分の体がもう光そのものになったような経験したときとかも、「これはすごい!」と。「これは偉大な境地かもしれない!」って思ったんだけど、やっぱりわたしはちょっと――自分のことなんであんまりあれだけども、一応誤解を恐れずに言うとね、おそらくたぶんわたしは過去世でたくさん修行してたんだと思う。だからはまらなかったんだね、そこでね。「すげえ! これすげえ! なんか、何が起きてるんだ!」って一瞬思ったんだけど、ふっと自分を観察すると、何か別に変わってない(笑)。ただヴィジュアル的に、あるいは音楽的にいろいろ起きてるだけで、自分の普段の――そのころわたし、今よりももっとこうちょっと怠け者的なところがあって。あと例えば、そうだな、いろんなもちろん趣味っていうか現世的な執着とか欲望とかも当然いろいろあったわけだね、今以上にね。で、それは全然変わってないと(笑)。変わってなくて、ただ体験だけが起きてると。それを見たときに、「あ、これ違うな」って思った。うん。「おれ悟ったかな? とか今一瞬思ったけども、ああ、なんか全然変わってないな」と。
それからもう一つわたしがそのとき思ったのは、やっぱりわたしはね、理想が高かったんです。理想が高かったっていうのは、最初そのヨーガの道に入ったときに、ヨーガの本とか――まあ縁があってね、ヨーガの経典とか読んだときに、「すげえ!」と。「真我」とか「解脱」とか言ってね、「これすげえ!」と。この境地っていうのは本当にわたしがね、もしわたしがそれを得たとしたならば、もう本当にもう――もうその境地っていうのは本当にもうパーフェクトな、なんの一点の染みもない至福に満ちた完全な悟りなんだろうな、っていうのがあったんです。だから、「こんなんじゃねえだろ」っていうのがあったんだね。いかに体中が光に包まれても、なんかボーッとしてるし(笑)、全然変わってないから、「これがおれの求めてる悟りなわけがないじゃないか」と。「ああ、たぶんこれは魔境かもしれないし、あるいは魔境じゃないにしろまだ本当に浅い段階の経験なんだろうな」ぐらいに思ってた。だからたぶんそれは、わたしにたぶん、過去世からの修行経験があったから、たぶんあんまりびっくりしなかったんだろうね。「ああ、これねこれね」って感じで潜在意識が分かってたからだと思うんだね。
でもそうじゃなくてそのような、今言った――今ちょっと自分のことだからあんまり言いにくいけども、今わたしにとって良かったことっていうのは、まず素晴らしい高い理想があった。それから修行経験がおそらく潜在意識にあったってこと。それから、ある意味謙虚さがあった。「え、おれそんな、まだそんなんじゃないだろう」っていうね。でも逆にいうとこの三つがないと、つまりもともと傲慢でね、「おれはすごい、おれはすごい」っていつも思ってて、で、理想が低いと。ね(笑)。つまり「いや、完全な解脱っていうのは本当にパーフェクトにクリアじゃなきゃいけないだ」っていう理想がないと。そして、修行経験も浅いと。この場合は当然引っかかるわけだね。例えば経験だったら経験に引っかかる。ちょっと光が見えたからって、「うわあ! すげえ! 光だ!」と。ね。「やはりおれは偉大だった」と(笑)。で、そこでもう「おれの修行は終わった」と思ってしまう。これがだから――これは体験の場合ですけどね、体験による慢心の罠だね。
で、ここで書かれているのは、もう体験すらないわけですよ。体験すらなくて、人からなんか一つのレッテルを貼られたと。そうだな、皆さんの場合はね、人からの賞賛の言葉とかもそういう意味では魔になるのかもしれない。例えばT君が誰か生徒さんにね、「いやあ、T君といるといつも気が上がるんです」とか言われたとするよ。で、もちろんそれ自体いいことだよね。T君といると、もし気が上がるっていう生徒がいるとしたら、それは喜んでかまわない。「あ、わたしは修行によってこんなにいい影響を与えられたんだ」と。「さあ、もっと頑張るぞ」――これならかまわないんだけど、じゃなくて、「やはりおれは偉大である」と。ね(笑)。そこで慢心になっちゃって、で、「おれは人の気を上げることができる聖者だ」っていうそのガチッとした観念が固まると、今度はここに書かれているように他者の非難が始まるんだね。「さあ、M君とかKさんとかどうなのかな?」と。「生徒さんの気を上げられるんですか?」みたいな(笑)。
(一同笑)
ちょっとこう、慢心になって(笑)、人を比較して、「おまえたち駄目なんだ」みたいなそういうのが始まるんだね。
でもこれも分かると思うけども、この生徒さんから――この例えの場合はね、言われたのがきっかけだったわけだけど、別に言われる前と言われてからでは何も変わってないはずなんです。変わってないのに、そのレッテルによって自分をすごく高く持ってしまうってね、それによって人を批判したり、人を比べて低く見ることによって自分を成り立たせたいって思ってしまうと。こういう罠にはまってしまうんだね。
で、いつも言うけども、こういった魔の働きっていうのは、最初は小さな罠から始まります。小さな罠から始まって、そこを悶々としているうちにだんだんでかくなっていくんだね。で、やっぱり魔っていうのは巧妙だから、そのちょっと大きくなってきた慢心とかけがれをより大きくするような、また小さな出来事がいっぱいやってくるんだね。で、気を抜いているとどんどんそれにはまっていって、いつの間にかもうどうしようもないぐらいに慢心が大きくなってるとかね。こういう場合がありますよと。よって、ここにも書かれているように「慢心こそは堕落する根本罪であり、その罪は重い」と。
いつも言ってるように、慢心っていうのは、最も自分が気付にくい煩悩でもある。ね。だからもちろん気付いたらしっかりと切り捨てなきゃいけないんだけど、気付きにくいので常に「自分には慢心がないかな? 慢心がないかな?」っていうその自己チェックを怠らないようにしなきゃいけないね。
でも難しいのはさ、逆に、もちろん卑屈になっても駄目ですよ。謙虚になって、いつも言うように随喜するっていうかな。自分が為し得たことで良かったことはもちろん喜んでかまわない。しかしそこに慢心を持たないっていうことだね。
慢心っていうのは言い方を変えると、さっきも言ったようにガチッと自分の状態を固定しレッテルを貼り、そこにしがみつくようなものですね。慢心の状態っていうのはね。だからそうじゃなくて、まさにカルマヨーガ的に、「自分はただ目の前にある為すべきことを為す」と。為して成功したら良かったと。例えば今の話で言ったら、為すべきことを為すと、で、それで目の前の、例えば生徒さんや周りの人が「あなたのおかげで良かった」って言ってくれたとしたら、「ああ、本当にわたしは神のしもべとしてやることができて良かった!」――これで終わりなんです。で、また次に為すべきことを為すと。これでオッケーなんだね。でもわれわれは、さっきから言ってるけども例えば名前によって、人からの言葉によって、あるいはある場合は体験によって、ガチッと自分の世界を止めてしまう。で、その慢心という籠にグッとこう引きこもってしまうんだね。それによってどんどん修行は進まなくなり、どんどん落ちていくと。だからこの慢心という罠には気を付けなさいっていうことですね。
はい。じゃあ次いきましょうね。