「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第五回(7)
【本文】
如来神通行の菩薩とは、速やかに目的地に到達する旅人にたとえられる。
このような性質を持つ人は、菩提心を生じて、甚深にして広大な大乗の意味を理解し、常に一切の衆生を救済するために、慈悲や菩提心をもって、六つのパーラミターなどの菩薩行に精進する。また他者をもことごとく同様の道に安住させる。このような人が、如来神通行の菩薩である。
はい。これはね、最高のパターン。つまり全くね、迷わず速やかに目的地に達成する菩薩っていうのは、「甚深にして広大な大乗の意味を理解し、常に一切の衆生を救済するために、慈悲や菩提心をもって、六つのパーラミターなどの菩薩行に精進する」と。これはもう、言葉で言うと簡単になっちゃうわけだけども。あるいは、「他者をもことごとく同様の道に安住させる」と。
つまり机上の空論ではなく、六波羅蜜に代表されるような菩薩道を日々、全力で――いいですか?――実践し、完成するっていうか。つまりここで完成するって言ってるのは、つまり「やったけどできなかった」っていうんじゃないっていうことです。つまり、「ちゃんとやる」ってことです。ね(笑)。最初われわれは、やろうとしたけどなかなかできないんですよね、っていう段階から始まるわけだけど、そうじゃなくて、やると。ね。ちゃんと「菩薩はこう生きるんだ」っていわれることを百パーセントやると。
あのね、心が苦しいかどうかはどうでもいいです、それは。よく言われるように、つまり演技でもかまわない。演技でも真似っこでもかまわない。もし皆さんが一日百パーセント、菩薩としての生き方を苦しみつつもできたとしたら、それは演技かもしれないが、少なくとも一日は菩薩だったってことになる。一生できたら結局その人は菩薩だったってことになる。ね。例えばY君が一生、もう超やせ我慢しつつ、菩薩っぽくふるまって、で、それが一日で終わらず一年、二年、十年、百年と続いたと。で、死ぬときに、「いやあ、先生、実はおれ、全然違うんだけど(笑)、ずーっと菩薩を演技してたんですよ」――ガクッて死んだとするよ。でもですよ、百年演技すりゃあそれはもう菩薩だよね。それはもちろん仏陀になったとは言えないけども、それは偽物といえるんだろうか?っていうことになる。それはもう別に菩薩っていってもかまわないです、それはね。だからやせ我慢でもいい、演技でもいいので、百パーセント、菩薩の教えどおりに生きると。それは、そのようにしっかり言葉を発し、あるいはそのような考えを持ち、あるいはそのような行動を行なうっていうことを百パーセント行なうと。これができたら、本当に速やかにね、その目的地に達成するだろうと。
だから結局、これもだから簡単といえば簡単なんだね。うん。もっとも速やかに仏陀になる方法は何ですか?――それは簡単ですと。大乗の教えを学び――これはもちろん別パターンとしてはバクティヨーガでもかまわない。バクティヨーガや大乗の教えを学び、百パーセントその通り生きなさいと。それだけですと。ね。
もちろんここでは念正智が必要になるわけだけど。「自分が教えから外れていないかな?」っていうチェックがないと無理なわけだけど。チェックしながら百パーセント、一瞬も外れずに生きると。ね。これができたらもう速やかにいけますよと。
しかし実際には、すぐに心は落ち込んだり駄目になったりするので、いつも言うように実際にはムドラー等の行法とか、あるいは歌を歌ったり、あるいはいろんな神の瞑想したりっていうバクティ的な方法とか、いろんな補助的なものによって自分の意識状態を常に高めた状態でキープすることがなければ、なかなか難しいね。
だから逆にいうと、日々の修行っていうのはそのためにあるといってもいい。自分の心を常に高い状態でキープし、そして一瞬も理想から離れないで生きると。これが大事ですね。
はい。じゃあここまででなんか質問その他ある人いますか?
はい。じゃあ、なかったら、ちょっと中途半端ですけど、もうちょっとだけいってみましょうかね。じゃあ「魔事」ってやつね。