「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第二回(1)
2009.10.21
解説 スートラ・サムッチャヤ 第二回
はい、今日は『スートラ・サムッチャヤ』の二回目ですね。もう一回、前回参加してない人もいるのでもう一回最初から言うと、ここで皆さんによく勧めている『入菩提行論』ね、『入菩提行論』を書いたシャーンティデーヴァですね。シャーンティデーヴァっていう方は『入菩提行論』が代表作なんですが――あの、みんなにいつも言っているように、わたしは仏教のいろんな論書の中ではね、まあいろいろ人によって、考え方が違うでしょうけども、わたしは『入菩提行論』がやっぱり最高だと思うね。最高だっていう意味は、もちろんなんていうかな……ものすごい崇高なことを言ってる経典っていっぱいあるわけですけども、最も実践的――つまり読んでね、本当にわれわれに初心者から上級者まで利益がある経典だと思うんだね、『入菩提行論』っていうのはね。
で、あの『入菩提行論』っていうのは、シャーンティデーヴァの書き下ろしなわけですけども、シャーンティデーヴァには、あと二つ代表作があるんですね。つまり三部作があるんですね。で、その短いものが、今日勉強する『スートラ・サムッチャヤ』、そして長いものが――まあ、これも勉強会でやってますけど、『シクシャー・サムッチャヤ』っていいます。
で、この『入菩提行論』は、今言ったように書き下ろしなんだけども、この『スートラ・サムッチャヤ』と『シクシャー・サムッチャヤ』は、あえてね、いろんな経典の引用っていうかたちで論を展開している論書なんですね。で、そのうち『スートラ・サムッチャヤ』はコンパクトな短い内容になっています。で、『シクシャー・サムッチャヤ』は、長いね、長大な内容になっています。
ですから、『入菩提行論』をよく読んでいる人は覚えていると思いますけどね、『入菩提行論』の一節で「シクシャー・サムッチャヤは必ず見るべきである」と。「必ず何度も読むべきである」と。「なぜならそこに正しい行法が示されてあるから」と。あるいは「まず簡単にスートラ・サムッチャヤを見よ」っていうふうに書いてあるんだね。つまり、『シクシャー・サムッチャヤ』っていうのはいろんな経典からの引用で、菩薩としての正しい生き方や修行法が書かれているんですが、まあそれは非常に長いので、もうちょっとコンパクトな『スートラ・サムッチャヤ』をまず見なさい、っていうふうに書いてある。で、『入菩提行論』っていうのはその中間ですね。まあ中間的な分量になっています。
はい、その『スートラ・サムッチャヤ』ね。さまざまな菩薩道の流れを、いろんな経典からの引用っていうかたちでコンパクトにまとめた経典っていうことですね。
はい。で、前回までは確か「信」のところをやったんだね。「信」っていうのが終わって今日は菩薩の――いよいよね、「菩提心」に関係する話になってきます。「菩薩の五つの法」っていうところからかな、確かね。はい、じゃあ菩薩の五つの法のところ。はい、じゃあ読んでみましょうかね。
【本文】
◎菩薩の五つの法
また、サーガラナーガラージャパリプリッチャー(海竜王請問経)には、次のように説かれている。
「竜王よ、菩薩には次の五つの法がある。
①信の力
②カルマの果報に入る力
③菩提心をあきらめない力
④誓いの力
⑤一切の不善法をあきらめ、一切の後悔を捨てる力」
はい、まず「菩薩の五つの法」っていうのが出てきましたが、これはまあパッパッていくと、「菩薩には五つの法がある」って書いてありますが、これはだから逆を言うと、菩薩は――つまり菩薩道を行きたいと思う者は、この五つを修めなきゃいけないっていうことです。
はい、一番目が「信の力」。信については前回もやりましたけども――つまり、まあ簡単に言うと「信じる」っていうことですが、前回も言ったように本当の信っていうのはちょっと信じるっていうのとは違うんですね。まあほとんど「智慧」と同じような意味になってくるんですが。
つまり、信じるっていうのはさ、前も言ったけど、われわれが普通に普段使う「信じてますよ」っていう言葉っていうのは、実は信じてるっていうよりは「期待してる」って言った方がいいんですね。だからその、「裏切られる」っていう結果が生じる。例えば、「わたしはあなたを信じていたのに裏切られました」と。これは信じているとは言わないんですね。それは、期待していたと。つまり、例えば「わたしにいい利益を与えてくれると期待していたのに、裏切られました。」すごくリアルに言うとね、そういうことなんだね(笑)。
信っていうのは、そんな相手が何か変わったからって、何か変わるようなものではない。つまりその、ちょっとこれは前回も話したけどね、すごく言葉にはしづらいものなんだけども、われわれのいろんな疑いであるとか、心のけがれであるとか、あるいは打算的な心とか全部取り払われたところに現われる、もともとわれわれの中に眠っている、ある純粋な、なんていうかな、「真実を見極める目」みたいなのがあるんですね。だから信っていうのは――例えばですよ、ちょっと例え的に言うと、ヨーガの例えば真理とかがあって、あるいは仏教の真理というのがあって、そういったものをわれわれが信じるっていうのは、「よく分からないけど、まあ先生が言うから信じましょう」っていうよりは、もう心の奥底から「え、そうでしょ」と。「それはそうでしょ」と。「もちろん、細かいことはまだわたしは悟っていないから分からないが、でもそれはわたしは正しいと思います」と。こういう領域の話なんですね。
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