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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第三回(13)

【本文】

 また、ラトナメーガ(宝雲経)には、次のように説かれている。

「菩薩が十の法を具足するとき、大悲をもってその本性とするのである。十の法とは何か。

 ①衆生の苦悩、保護する者のいない人、救済されない人、帰依するよりどころのない人などを見て、菩提心を起こす。

 ②菩提心を起こすことで、衆生のためにダルマターを得るために努力し、精進し、あらゆる難行に着手する。

 ③ダルマターを得て、実際にもろもろの衆生に利益を与える。

 ④貪欲な衆生たちに布施行を行なわせる。

 ⑤戒を破る者たちには戒を守らせる。

 ⑥心が傷ついている人には忍辱(にんにく)を行なわせる。

 ⑦怠け者には精進させる。

 ⑧心が乱れている人には禅定をさせる。

 ⑨悪知恵を持つ人を見たときには本物の智慧を持つように勧める。

 ⑩衆生の苦悩ははかりしれないので、誹謗され妨害されても、菩提行から退かない。

 菩薩がこれらの十の法を具足するとき、彼は大悲をもってその本性とするのである。」
 

 はい。まあこれは、だから言い方を変えると、菩薩は、大悲の本性を持たなきゃいけない。で、それは、言い方を変えるとこの十の法を具足ね――自分のものにしてるってことなんですよと。
 ちょっと時間がね、だいぶなくなってきたんでパッパッといきますが――まず「衆生の苦悩、保護する者のいない人、救済されない人、帰依するよりどころのない人などを見て、菩提心を起こす。」これは分かりますね。
 で、「菩提心を起こすことで、衆生のためにダルマター」――ダルマターってさっき言った、この世の――まあつまり、すべての現象の真髄みたいなものの真理を得る。まあつまり、それを得たらもう仏陀なわけだけど。それを得るために「努力し、精進し、あらゆる難行」ね。つまり修行にはいろんな苦しいことや、いろんな壁があるわけですが、それをしっかりと乗り越えていくと。
 はい。で、三番目に、そのダルマターの悟りを得て、実際に以前ね、願ってたような衆生への利益をしっかりと与えるんだと。

 はい。で、この四からは、今度は分かると思いますが、いわゆる六派羅密ね。六つのパーラミター――布施・戒・忍辱・精進・禅定・智慧という菩薩の六つの修行の話ね。で、それを、自分がやるというよりは、自分はもうこの段階で悟ってるので、周りにやらせるっていう話ね。
 はい。まず「貪欲な衆生たちに布施行を行なわせる。」――これがね、何回か言ってるけど、仏教やヨーガと、まあ、キリスト教っていうか、もともとのキリスト教は違うんだろうけど、現代的なキリスト教とかとの違いです。これは何回か話したけども、こういう話があってね――まずお釈迦様がいらっしゃって、お釈迦様があるとき、弟子と共に托鉢に行ったと。そしたら二つの道があって、で、一方の道は、お金持ちばかりの人が住む村への道だったと。で、もう一方の道は、本当に今日食べる物もないような貧乏人の村だった。で、そこに来たときに、お釈迦様は、貧乏人の方に歩いていったんだね。で、それを見て弟子が、「そっちは貧乏人の村ですよ」と。そっちに行っても、みんな――まあある意味ね、ちょっと平たく言えば、「かわいそうですよ」と。だってみんな食べる物ないんだから。それをまた「今日の食事ください」なんていうのは、かわいそうですよと言ったら、お釈迦様が、「だから行くんだ」って答えたんだね。
 つまり、これは何を意味してるのかっていうと、つまりカルマ理論ね。まあ、こういうこと言うとちょっと厳しいけども、つまり「なぜ貧乏なんですか?」「なぜ食べられなくて苦しいんですか?」――それは、心に貪りがあるからです。まあ、餓鬼のカルマがあるからですって考えなんだね。まあ、現代であんまりそういうこと言うと、すごく非難されるからあんまり言いにくいんだけど(笑)。「じゃあ、貧乏人はカルマ悪いのか!」てよく言われるから。でも、はっきり言うとそうなんです(笑)。すべてはカルマだからね。これは、仏教を信じるならばですよ。仏教を信じるならば、得られなくて苦しいっていうのは、それは貪りのカルマなんだね。で、その貪りのカルマがある人を救うためには、得られないから物を与える、では駄目なんだね。もちろん一時的なそれは救済にはなるけども、本質的には、その貪りから脱却させなきゃいけない。つまり、布施をさせなきゃいけない。特にお釈迦様の場合は仏陀だから、お釈迦様に布施をするっていうその状況は、素晴らしい徳になるし、素晴らしい貪りからの解放になるわけだね。だからお釈迦様は自ら行って、その貪りのために苦しんでる人に、布施をさせるんだね。
 だからこの感覚っていうのは、すごく深いものがあるんだね。だからちょっと表面的なことだけ言うとですよ、物がない、食べ物も今日食べる物もない人のところにお釈迦様は行って、「食べ物よこせ!」って言ってる(笑)。ひどい感じだよね、表面的なこと言ったらね。うん。いっぱい食べ物持ってる人いるのに、その人のところには行かずに、もう今日ちょっとしか食べ物もない人のところに行って、「はい、その最後の食べ物を私によこしなさい」と(笑)、いうことをやってるわけだね。うん。じゃなくて、「いや、あの人は食べ物がないから、分けてあげましょう」――これはこれで素晴らしい。これはこれで素晴らしいけども、まあなんて言うかな、それは今、現状の目に見える苦しみを取ってあげたいっていう気持ちだね。そうじゃなくて、この人が苦しんでる根本を治療してあげたいって思ったら、貪りがある人には、布施をさせるしかない。

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