「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第一回(11)
「疑念を持たずに信と理解を持つこと」――まあこれはもうストレートですけどね。疑念を持たないと。で、これはいつも言うけども、われわれが疑念にさいなまれるときっていうのは、この動物界のチャクラである、スワーディシュターナ・チャクラ、つまり性器のチャクラに意識が集中すると、疑念という心の作用が出てくるんだね。だからこれは理由がどうこうとかじゃなくて、エネルギー的にわれわれは、このスワーディシュターナ、動物の世界に巻き込まれると、疑念が出ます。だから性欲が強くて、性欲的な修習が多い人ね、っていうのは疑念が出やすいんだね。あるいは今性欲的なこといつも考えてばっかりいる人っていうのは疑念が出やすい。あるいは動物的に、例えばすごく依存心が強かったり、あるいは愛情欲求が強かったり、あるいはもう本当にもう本能のままに煩悩を満足させるタイプの人っていうのは、やっぱり真理とかに対する疑念が出やすいんだね。だからそれもシャットアウトしなきゃいけない。
だからまあこの信を高める上で疑念を持っちゃいけないっていうのは、当たり前のことなんだけども、単純に「疑っちゃいけませんよ」じゃなくて、自分が今陥ってるその疑念が出てる意識状態っていうものが、もうひどいもんなんだと、それは、と。それは本来の自分でもないし、いや、本来の自分じゃないどころじゃなくて、ものすごいひどい状態なんだって考えた方がいい。疑いの心ね。
これはね、真理とか修行とか関係なくてもそうなんですよ。つまりこのスワーディシュターナの世界にいる人っていうのは、いろんなものに疑念を持ちます。つまり恋愛上の疑念とかね、あるいは友達とか仕事上の疑念とか。おれをこういうふうに騙そうとしてるんじゃないかとか。そういう疑念でもういっぱいになってしまう。つまりさっき言った神に心を開くとかいうのとはもう正反対の心ですね。まず神じゃなくて、周りの人に目がいっている。しかも全く開いてないわけですね。もうガチガチに防衛してると。もちろんそれは、皆さんがこの疑い多き時代に生まれ、この時代で育ったから、しょうがないといえばしょうがないのかもしれない。そういうなんか教え込まれてるんだね、逆に。疑わないといけないみたいな。教え込まれてるから。でもそれはもう後天的なけがれなんで、それはどんどん外していかなきゃいけない。
いつも言うけど、だからと言って無智な信は駄目ですよ。いつも言うように、例えばセールスの人を信じて何でも買ってしまうとか。変な宗教の勧誘を信じていろいろ入ってしまうとか、そういうのは駄目だけど、それは智慧を持って見ないといけないんだけど、もう一回言うけども、エネルギー的な、あるいはその世界にはまってしまったことからくる無意味な疑念っていうのがある。それがもし自分に出てきたら、あ、わたしは低い世界とまだ縁があって、せっかくわたしにも純粋な信っていうのがあるのに、こっちの疑念の方の世界ともまだ足が切れていないと。縁が切れていないと。だからそういうのをどんどんどんどんシャットアウトして、さっきから言ってる、純粋な高い世界の、あるいは唯一なる神や仏陀への信がもっともっと確定されるようにがんばろうと。こっちの方に常に目を向けようと。そういうふうに考えなきゃいけない。