「解説『ただ今日なすべきことを』」第2回(4)
(K)一ついいですか。もしじゃあ、瞬間瞬間に集中してってなっていくと、やっぱり心が動かないだけに、感情ってものがほとんどなくなる感じなんですけれど。楽しいとか、嬉しいとか。さっき言ってた、何か見てわーっていう感情っていうのは、一瞬でも流されてる状態なんですか、それって。例えば太陽を見て「きれいだー!」とか……
いや、そんなことはない。あのね、答えを言ってしまうと、まあよく言われることなんだけど、仏教とかヨーガとかを進めていくと感情がなくなるようななんか錯覚があるんだけど、そんなことないんです。ものすごく楽しくなります。ちょっと、なんていうかな、論理的なことは別にして答えだけ言うと、あの……すごく楽しくなる(笑)。
それはどういうことかっていうと、なんていうかな、ちょっとこう細かいことは抜いてね、大ざっぱな真実だけ言うけども、われわれの心の奥底、つまりそのとらわれとかがない――ないっていうかまあ少ないって言ってもいいかな。とらわれとかまだ少ない、もうちょっと原初の方に戻ると、超楽しいんです、われわれの心っていうのは。それは、なんていうかな、ねじれた屈折した喜びじゃないんです。じゃなくて、もう純粋な喜びがわれわれの内側にあるんです。
それはね、そうだな、偽善とかじゃなくて、例えば人の幸せを手伝って、例えば人の幸せを見たときに、喜びみたいなものがある。そのもっと純粋化されたようなもんだね。その偽善とかエゴが入り込まない純粋な喜びみたいなのがあるんです。で、これはね、今日あんまりちょっとこういう話すると変なっていうか、バカみたいな話になるんであまり言わなかったけど、わたしもそういうのを最初ちょっと経験し始めたときっていうのは、もうね、なんていうかな、客観的に見るとちょっと馬鹿なんです。どういうことかっていうと、朝起きて、あ、起きたと。「わあ、朝だ!」と。「おーっ、朝だ!」と。で、ドアを開けて「開いた!」と(笑)。だから何だっていうんじゃないんだけど、もうあらゆるものがね、喜びでしかないんだね。うん。それは非常にピュアな状態です。さっきの執着とかっていうのは、条件や理由がある喜びなんです。つまり「これはおいしいから喜びである」とか「わたしにあの人はいいこと言ってくれたから楽しいな」なんだけど、じゃなくてこの瞬間に集中して生じる喜びは、もっと原初なものなんだね。われわれの心の奥に眠ってる、純粋な喜びがこう目覚めるんです。で、それを、なんていうか味わいながらこの世を生きられたら最高です。
その人はね、条件に左右されなくなるから、さっき言ったように客観的に見ると、ちょっと馬鹿みたいに見えます。だって一般の人が悲しむことでも喜んでるから。うん。その裏側にある神の愛とか、いろんなものをこう純粋に感じ取れるんだね。例えば何か頑張ったのに失敗したとしても、すごい歓喜なんです。「ありがとうございます、神さま」と。「失敗ですか」と(笑)。こういう感じですべてがもう喜びになる。うん。
でもそれは、今言ったことっていうのは、もうなんていうか経験するしかないんだね。そういうことをなんか、なんていうか皆さんがわざとこうやってもしょうがないので、とにかく最初は今に集中する訓練をする。そうするとね、まあ一瞬あるいは二瞬っていうか、何回かずつでもなんとなくそういうのが分かってくることがあるかもしれない。「あ、これなのかな」――その片鱗みたいなものを、最初ちょっと経験しだす。ずーっとじゃないんだけど、ちょっと一瞬そのすごい喜びっていうかな、純粋な歓喜が生じたとか。それはまあ理想なんだけどね。うん。
で、もうちょっとこう現実的なことに引き下げて言うと、そこまでいかなくても、あの……
(K)初めて通えるこうした瞬間とか……そういう……
そうそうそうそう。そこまで、今わたしが言ったことまでいかなくても、今K君が言ったような、全部初めて――全部すべてが最初っていう感じになるから――あ、そうだね、だから子どもみたいになる。子供ってさ、まあもちろん性格悪い子供は駄目だよ。暗い子供とか駄目だよ。そうじゃなくて本当に活発で生き生きした純粋な子供がいたとして、この子が人生で初めてのことっていっぱいあるわけです。まあ例えば親がちょっとあまり外に出ない人で、今まで家でばっかり暮らしてきましたと。で、心はすごく純粋でいろんなことに興味がありますと。はい、じゃ、この子に今日からいろんなことを経験させましょうかと。例えばそうだな、旅行に連れっていって、まあきれいな山に連れていったと。「何この山! これが山? 本では見たことあったけど、何この広い、緑ばっか!」と。「うおー!」と。でもその子がさ、二、三年経ってたら、もう感動なくなるよね。「えー、お父さんまた山なの? いいよー。」
でもそうじゃなくて、毎回そうなんです。毎回また連れていったら、「おーっ、また山!」あるいは海連れていったら、「何この巨大な水は!」と(笑)。「何もない! 水平線が見える!」と。「あっ、お日様が出てきた!」と。
これはだから、さっき言ったことよりもちょっと引き下げてるけど、でもそれはみんなできるかもしれない。だからこれは意識的に全部一回目なんだって考える。全部その慣れっていうか、変な習性みたいなのを捨てて。その場面においては別にそういう感動があっていいです。あるいはその、まあ邪悪なものは駄目だけど。毎回怒るとかそんなのは駄目だけど、そういうような喜びは出していい。しかし執着しない。執着しないっていうのは、慣れにもならないし、執着にもならない。
例えば、まあだから食事とかもそうだよね。――食事もさ、なんていうかな、まあこれは食の本質を悟るっていうこととはまた別のパターンなんだけど……別っていうか逆の瞑想なんだけど――食の本質を探る場合は、さっき言ったように「さあ、これは本当においしいのだろうか?」ってやっていくんだけど、そうじゃなくて、もともとわれわれが普通においしいと思っているものがあるじゃないですか。で、それは子供のころからおいしいと思ってた。でもそれがだんだん慣れとかによって、なんていうかな、あんまり価値を見出せなくなってくることがある。
例えばさ、ここにいるみんなどうか分かんないけど、カイラスの人ってちょっと――あの、わたしはね、昔からいろんな経験では、結構男ってご飯が好きで、女性ってパンが好きかなって思ってたんだけど、カイラスの男性ってパンが好きな男性多いね(笑)。――多いのでちょっと当てはまんないかもしれないけど、わたしはご飯がとても好きなんだね。もともとね、子供のころから。で、ご飯だけで食える。ご飯のおいしさが結構好きなんだね。でもいろんなおいしいおかずに慣れてると、あまりご飯そのものには価値を見出せなくなる。ご飯好きだって言ったってさ、例えばお母さんが「はい、ご飯よー」ってご飯だけ用意したら、ちょっと待ってくださいとなる(笑)。でも実はわたしご飯好きなんです。実はご飯だけでもいけるんです。いけるんだけど、いろんなぜいたくとか、いろんなその過去の習性によって、これとこれとこれとこれがないと夕食とはいえないとか思っちゃってる。でもそうじゃなくて、瞬間的な、何のそういうとらわれもない心で見たら、ご飯を一口、口に入れただけで、もう最高においしいんです。もちろんご飯嫌いな人は別だよ。
これはだから何度も言うけど、悟りとはちょっと違うんだけど、少なくともね、引きずられない、瞬間瞬間を新たな目で見る一つのやり方だね。これもとてもいいと思います。どっちにしろまだそこら辺の執着っていうか錯覚は取り除けないわけだから。その味覚とかいろんなものはね。でもね、最低限それを引きずらない。瞬間瞬間新鮮な目で見る。
さっきも言ったように、例えば皆さんが――まあこういう勉強会とかもそうかもしれないね。勉強会に来て、ああ、みんなでこうやって教えを学べるっていう喜びを最初は感じてたかもしれない。でも、だんだん慣れてきて当たり前のようになってくる。でも、それを毎回毎回まるで初めて来たかのように感じるわけだね。「あ、カイラスはここでいいんでしょうか?」と。まあ、そこまでやる必要はないけど。
(一同笑)
そこまではわざわざやる必要はないけども(笑)。「あ、本当に素晴らしい」と。「こんな法が学べるなんて」っていう気持ちを毎回毎回、例えば持つ。
あるいは例えば、もし家族がいるとしたら、例えばお母さんが何か作ってくれたり世話をしてくれる。それは当たり前になってるけども、「いいんですか?」と。「いや、わたしがやりますよ」と。「えっ、作ってくださったんですか? おいしい!」と。これはこれでとても素晴らしい。うん。
だからまあさっきから言ってるように、悪い感情をそこに乗っけちゃ駄目です。もちろんそこに乗っけるのは、いい感情だったり、最悪、人に迷惑をもたらさない感情だね。それは瞬間瞬間――だから感謝とかも素晴らしいね。感謝っていうのはわれわれが、さっきも言ったように相対的な目で、もしわれわれがもともと非常に恵まれない人間であると仮定したならば、この世は感謝の宝庫です。われわれはそんなに感謝の目で見てないけども、さっき言ったような、お母さんが何かやってくれるのもものすごい感謝だし、あるいはそうだな、街歩いてると誰かがにこっとしてくれて会釈したと。これも超嬉しい。「ああ、あの人はわたしにあんな笑顔を与えてくれた」と。「ありがとうございます!」と。
あの、躁状態とは違うよ(笑)。躁鬱的な躁状態とはまたちょっと違うよ。もうちょっとこう、なんていうか純粋な感じなんだけど。すべてに対して本当にゼロの気持ちで見れるんだね。ゼロで見たら――つまりわれわれは、逆の言い方すると、その前にレッテルがあるんです。レッテルがあって、レッテルの上で今の現象を見るから、すべてが相対的になるんだね。例えばそのものすごいセレブとかお金持ちでぜいたくな暮らしをしてる人から見たら、ある中級の暮らしってのは、もう人間とはいえない暮らしですね、って言う人もいるかもしれない。でも、乞食みたいな生活をしてる人から見たら、その生活はもう神様みたいな生活だと。こういう感じですべてをこう相対的に見てる。
いつも周りから優しくしてもらってる人がいたら、誰かが笑顔を向けてくれたってそんなのは何にも思わない。でも、本当にみんなからいじめられたり本当に孤独の中で過ごしてる人が誰かに笑顔を向けられたら、「ああ、ありがたい」って感じるかもしれない。これすべて相対的なんだね。だからその相対性を捨ててただ純粋に見る。そしたらすべてが、まあなんていうかな、すべてがっていうか、いろんな意味で感謝がある。
例えば歩いてて、そうですね、前の人がちょっとどいてくれたと。そんなの当たり前だと思うかもしれないけど、それも感謝。「いや、どいてくれました」と。「ありがとうございます」と。だからそれを、なんていうか純粋な気持ちで持ち続けたらいい。これはまあ一つのやり方だね。
だから今日やってる話っていうのは突っ込めば突っ込むほどちょっと複雑になるっていうか、難しくなるんだけど。その辺はまた皆さんそれぞれ実践して、で、考えていったらいいね。とにかくそのポイントとしては、とにかく今に集中する。で、それをいろんな例をあげてちょっと今日は話したけど、それをぜひ是非実践してほしいと思います。