「私が見たブラフマ―ナンダ」より「我が師」(2)
私は、私が彼について知っていること、彼から感じたこと、そして彼の存在から得たものだけを書こうと思っています。それは自然に伝記のようなものとして認識されるでしょうが、もし私が“私”という代名詞を多用してしまっていたら、どうぞお許しください。
この“私”は、決して師から分け隔てられたものではないということを覚えておいてください。この“私”は、いつも師の御足のもとにあります。――あるいは少なくとも常に彼の御足のもとにあろうとしています。
かつて弟子がマハラジに、「ラーマクリシュナのことについて何か話してください」と尋ねたことがありました。マハラジはこう答えました。
「私が師の何をお前に話すことができようか。師ご自身がお前に明らかにしてくださらない限り、お前は師を理解することなど不可能なのだよ。」
これが、すべての明知を得た魂や神人たちに当てはまります。例えばイエスもそうです。イエスが地球上に生き、歩き回っていた頃に、何人の人々が彼の神聖さを認識できたでしょうか? イエスは何とおっしゃっていたでしょうか?
「君たちが私を選んだのではない。私が君たちを選んだのだ。」
私の師も、全く同じことをおっしゃいました。師は永遠に何にも縛られない魂であり、かつ神の子であり、ブラフマンを真に知る御方であり、ブラフマンと完全に同一でした。われわれは、師の近くにいたときも、いつもこの方が神であるという想いを持っていたわけではありませんでした。たまに、この(師が神そのものかもしれないという)考えが心に浮かぶこともありましたが、師はおもしろいことをやったり、いろいろなジョークを話したりして、われわれにこのことを忘れさせたのでした。
あるとき、誰かが、「イエスが弟子たちと、どのようにして楽しんでおられたのかを知れたらいいのにな」と言いました。残念なことに、これについての記録は残っていないのです。しかし、このように言うことはできるでしょう。
「すべての明知を得た魂や神と合一したすべての偉大な人々は、喜びに満たされています。」
われわれはこれを、マハラジと共に経験しました。
彼がどこにいようとも、そこは歓喜の祭典となるのです。もちろん、それは限られた輪の中ではありましたが。
しかし、その輪の中に入る人は誰でも、また例え見知らぬ人であっても、その快活で陽気な雰囲気を感じていたのでした。それはごく当たり前の感覚で感じる快活さや陽気さではなく、大いなる歓喜を肌で感じていたのです。
マハラジがわれわれを厳しく叱り、訓練なさるときでさえも、わたしたちはこの大いなる喜びを感じていました。
そのような聖者の性質は、雷のように激しく、そして花の花弁のように柔らかであると、偉大な詩人によって描かれています。
なぜ彼は激しい雷なのでしょうか?
それは、我々の悪いカルマを叩き潰すからです!
マハラジが雷のようなときでさえ、私は至福の流れを感じるのです。
わたしは彼の御足のもとで泣いているにも関わらず、この至福の流れを感じていました。
どのようにして、私はこのことを完璧に描写することができましょうか!
彼がお与えになった教えについて述べられることはごく僅かしかありませんが、彼の教育指導の多くは、寂静を通して与えられました。
彼は寂静を通して、人々の生き方を変えることができたのです。
私はこのようなことを見たことがあります。――マハラジがお座りになっている部屋は、大勢の人で溢れかえっていました。その彼ら一人ひとりは問題を抱えていて、意気消沈していたのでした。
そのとき、マハラジはあえて神や宗教について語ることなく、建築や庭、花について話をしました。
しかし彼らが帰路につく頃には、彼らの問題はすでに解決されているのでした。
これは、わたしが日々幾度も目にした不思議な現象でした。