「私が見たアドブターナンダ」より抜粋
◎イニシエーションと訓練
師(ラーマクリシュナ)は、真の奉仕の精神をラトゥに教えた。ある日、師はラトゥ・マハラジに仰った。
「ねえラトゥ、肉体に翻弄されてはいけないよ。骨と肉の集合であるこの肉体に奉仕することによっては、おまえは利益を得ないのだよ。でも、もしその中に住んでいる者に奉仕をするなら、おまえはすべてを得るだろう。」
”召使い”のラトゥと師のそのときの会話を、私たちは年長のゴーパール(シュリー・ラーマクリシュナの直弟子、スワミ・アドヴァイターナンダ)から聞いた。彼が語ってくれたことを一字一句そのまま下記に記そう。
ラトゥ「誰がその中にいらっしゃるのですか? 私は知りません。」
師「神がいらっしゃるのだよ! ジーヴァとしてその肉体に住んでいらっしゃるシヴァ神だ。」
これに対して、ラトゥは沈黙してしまった。そして、師はより強く仰った。
「ねえ、愛するラトゥよ。(心臓を指さして)彼を忘れるな。完璧に彼に従えるか? 絶対に、絶対に彼を忘れるな。」
これを聞いて、奇妙な変化がラトゥ・マハラジに起こった。彼は手を組んで、どもりながら言った。
「私はあなたをとても愛しています。あなたは私にとてもお優しい。――あなたを忘れることなどできましょうか。もし私があなたに従わないのなら、それは恩知らずで恥知らずなことです。疑いなく、私はあなたの命令を実行いたします。私は決してあなたを忘れません。」
師(笑いながら)「私は自分の言葉を話しているわけではないのだよ。――(心臓を指さして)ただ”ここ”からの言葉を話しているだけさ。」
ラトゥは答えた。
「私は”ここ”が何だかも知りません。分かりやすく教えて頂けませんか。」
これらのラトゥの言葉を聞いて、師は、年長のゴーパールに向かって仰った。
「ゴーパール、ラトゥがたった今、何と言ったか聞いたか。彼は『”ここ”という言葉をご説明ください。』と言った。
”ここ”という言葉を説明できるか? なあ、できるのかどうなのか早く言っておくれ。私はなんておかしなことを強制しているんだ!」
(この真面目でしかも滑稽な師の行いに)ゴーパールは言った。
「なぜですか。あなたは”それ”をご存じのはずです。なぜあなたがそれをご説明なさらないのですか?」
これに対して、師は(まるで恥ずかしがるように)仰った。
「なんておかしなことを言うんだ! “ここ”の性質を・・・・・・明かすべきかね?」
(年長のゴーパールは、負けじと答えた)「私たちは、このためだけに――『ここ』が何かということを知るために――あなたの周りに集まっているのです。あなたがそれをお隠しになるなら、私たちはどのように知ればよろしいのですか?」
師(笑いながら)「今は駄目だ、今は駄目だ。『ここ』は、今は知らせてはならない。それは時が来ればお前たち全員が知ることになるだろう。」
師が、ラトゥを神への奉仕の実践に導き入れる前でさえ、絶対服従の約束でラトゥを縛った理由は、明らかではない。
しかし、奉仕の修行においてグルの指導は重要であり、もし弟子がグルを信じて従わなければ、その修行に効果はない、ということを示しているのではないかと私たちは推測する。
したがって、シュリー・ラーマクリシュナは初めから服従を約束させたのかもしれない。師はよく仰ったものだ。
「最高のグルは、怠惰で指示を実行したがらない弟子を見つけると、力を行使したり、強引に服従させたりもする。」
グルは、すべての霊性の実践の中になくてはならない存在であり、神への奉仕の道においては、その存在はより重要になってくる。
繰り返し言う必要はない。その道に熟達した案内人なしに神への奉仕に専心する霊性の初心の修行者は、舵なしでボートに乗るようなものである。――ボートは波によってはじかれたり、激しく揺らされたりして、風が吹くところはどこにでも流されてしまうのだ。
未熟者は大量の仕事の海の中で、そのような運命をたどる。――彼は目的を見失う。すなわち、神の実現、神の人生という目的を。
慈善的またはその他の仕事の中でも、中毒の類のものもある。それは人を狂わせる種類のものである。――彼は目的を忘れる。行為が衝動、つまり怒りを生じさせ、それにより人は足元をすくわれる。彼は疲弊し、混乱し、休息できなくなる。
シュリー・ラーマクリシュナは、ラトゥがサットヴァであると見て、また彼は神を切望するに十分な基準に達していると見ていた。
シュリー・ラーマクリシュナは、ラトゥが未成熟の段階にあるうちは、彼を行為の渦の中に投げ入れたくなかった。したがって、このように忠告したのだ。
「ねえラトゥ、”ここ”を絶対忘れちゃ駄目だよ。」
ラトゥは師との約束通り、生涯を通じてシュリー・ラーマクリシュナの真の召使いであり続けた。
師を忘れて過ごした日は一日もなく、命令を破った日も一日もなかった。――また、師へのご恩を忘れて過ごした瞬間はひと時もなかった。ドッキネッショルでそうだっただけではなく、シュリー・ラーマクリシュナが亡くなった後も、ラトゥは一つの考え、発想、そして目標に徹した。――師に完全に従うため、そして瞬間といえども彼を忘れないために。
こうして、神を忘れないというラトゥの約束を聞いて、師はラトゥに、神の召使い(ダーシャ)たるものは一瞬たりとも神を忘れてはいけないという感銘を与え、彼はそれを生涯忘れることは決してなかった。
ラトゥは生涯神を忘れたことはなかったが、師はラトゥに彼の本性を明かさなかった――師御自身が神の化身であることを。
しかし師は、もしラトゥが諦めなければ神を悟るだろうという充分なヒントをラトゥに与えていた。
神の召使いであったラトゥは、師への最高の帰依と依存によって霊性の修行を始め、最後まで忠実に付き従ったのだった。
彼の帰依心は本当にすばらしく徹底していたので、後年、彼のグルバイつまり兄弟弟子たち、特にナレンドラ(スワミ・ヴィヴェカーナンダ)は、こう語っていた。
「私たち全員の中でラトゥだけが真に師を掴んでおり、私たちは単にラトゥの言葉を繰り返していただけだ。」
私たちがラトゥ・マハラジを実際に目の当たりにしなかったなら、人が一人の人にそのように完全に依存し、自己を明け渡すことが可能なのだということを理解できなかっただろう。
他者のために自分の命を犠牲にすること――それはたった一回行なえば済むものであるが、それよりも、完全に個を滅し、自分ではない者に自分を明け渡して、人生すべてを他者のために捧げ続けることの方が難しい。
それは、霊性の歴史の中では無類な、まれにみる現象である。
ラトゥ・マハラジは、シュリー・ラーマクリシュナに奉仕することを許された日以来、一度も他に行くことなく、師一人に完全に依存していた。
ラトゥの心には、少年期そして青年期を迎える前でさえ、この印象が深く刻みこまれていた。その結果、心の葛藤の潮はいつも引いており、彼自身の努力ですべてを成し遂げることができ、エゴイズムは完全に払しょくされていたのだった。
一般的に私たちは、自分で理解したことを実践することで、成長し幸福になると思っている。
したがって、私たちの向上心は、自分の理性の幅と方向性によって制限されている。当然、私たちはそれを超えることはできない。
もしその見解を変え、理解の幅が広くなれば、私たちの向上心も増大するだろう。
世俗的欲望によって抑圧されている一般の人々は、自分で自分の知性の外周を狭め、それによって視野をより狭めてしまっている。
しかし、寛大な見解を持ち、俗世を離れており、また自分自身を世俗的欲望に結び付けることを許さない人達は、いとも簡単に自らの知性を広げ深めていくことができる。その結果、彼らの向上心はより高まり、より広い範囲を覆うことができるのだ。
ラトゥは、神への奉仕の人生の手ほどきを受けた青年期の終わり頃、他の人達と同じように、世人のように狭く一般的な知性によって人生を送っていくかどうかという問題に直面しなければならなかった。
もしラトゥが私たちのような人だったら、つまり自分の力と知性に誇りを持つような人だったなら、為すべきことを選択するのは難しかっただろう。
しかしラトゥは違った。――彼は無学で直感的だったため、心の葛藤に圧倒されることもあまりなく、容易に自己放棄の道を選択できたのだった。
師の教育を受けた多くの信者たち――内輪に属している者も外輪の者も――疑念と葛藤の時期を経て、師を受け入れた。
彼らは、自分たちの知性の試金石で師を試した。
ある者は、(師を試して受け入れる前は)師を偏執狂者と呼んだことさえあった。
しかしとても驚いたことに、ラトゥの心には、師を試すという考えは一度も浮かんだことはなかったのだった。
ラトゥは、師に言われたことは何でも完全に信じ、疑いなく実行した。
子供とその父親のように、ラトゥは師に完全に自己をゆだね、それによって、他の者には与えられることのない安らぎを楽しんでいた。
神に近づくために奉仕をしようとする者は誰でも、まずは自己を完全に消し去るだろう。自己中心性を残したままでは、誰も本当の意味で他者に奉仕したり、癒すことはできない。なぜなら、自己中心性はその高い理想を実現する妨げとなってしまうからだ。
私たちは奉仕の道を簡単なものだと思っているが、もしその背景に愛がなければ――それは自己中心性を滅した愛であるが――奉仕が重荷となり、単調となり、苦痛となって、取り留めもない心配を作り出すだろう。
彼の自己は得ることと失うことに依存しているから、召使いは希望と絶望の狭間で切り裂かれる。
利益が見込まれない時には、奉仕は無機的になる。そのような奉仕は、いずれにせよ人を向上させない。
しかし、心が本当に無私の奉仕にからめとられているときは、それは至福になる。――何にも結び付けられることなく、何の利益も危険も顧みない召使いは、簡単に引き上げられ、彼自身が神に守護されていることが分かる。
このために師はラトゥに、師への奉仕を愛するようにさせたのである。
師はラトゥに教えた。
「ラトゥよ、聞きなさい。利益や動機というどんな希望にも揺り動かされてはいけないよ。――お前自身を完全に『彼』に差し出しなさい。
お前が『彼』を手放さなければ、お前はすべてを得るだろう。手放してしまうと、渇望は残る。あるいは増しさえする。そしてお前を翻弄して、不幸にするだろう。」
ときどき、弟子が聞くであろう質問を師は尋ねるのだった。
ラトゥはよく言った。
「私が何を知っておりましょう? あなたが私にご説明なさってください。」
そして師による説明はただ心の中に大切にしまわれていただけでなく、実践され、徹底的に活かされていた。ラトゥが何かを語るとき、すべてが師の言葉の引用だった。
ラトゥ・マハラジ「師がよく仰っていたことを知っているか? 人がものを食べることは、神に仕えていることと同じなんだよ。
彼は、すべての生き物の中にいらっしゃる。空腹としてお現れになるのは神ご自身なのだよ。
あなたがその(消化の)火にお供えをする物は、いつでも神に捧げているのだよ――そうではないかね?」
これに対して信者は質問した。
「そうです。ある意味そうであります。しかし私たちはそれを感じるでしょうか? 私たちが空腹を感じる時とき、私たちは食べます。――私たちが眠いと感じるとき、私たちは寝ます。
私たちは私たちの空腹であり、私たちの眠りだと思っています。そうであれば、この私のものという感覚は神だといえるのでしょうか?」
ラトゥ・マハラジ「そうだ! 君はお腹がすいたと感じ、眠いと言う。うん、この『君』は一体誰なのだ? これは何だ? それは手か足か、体か心か? 君の中のこの特有の感覚はどこから来るのかね?」
また別の日――
ラトゥ・マハラジ「ねえ、人に何かを与えるということは、神に仕えていることと同じなんだよ。もし人が何かを与え、お返しに何も欲しがることがなければ――名前であろうと名声であろうと、権力であろうとお金であろうと、天国または人からのどんなお返しだろうと――神は彼に対してお喜びになる。それをはっきりと知りなさい。
実質的には、君が誰かに与えるものは何でも、神へのご奉仕なのだよ。しかし、君が賢いやり方でそれをやろうとするなら――つまり何らかの動機を潜ませるなら――それは彼には届かない。」
信者「マハラジ、『賢いやり方の贈り物』とは何ですか?」
ラトゥ・マハラジ「どういうとき私たちは人を賢いと呼ぶかね? 彼の仕事が何らかの動機を満足させる、または満たす時――ではないかね? しかし、そのように動機のある行為では神をごまかすことはできない。――彼はそれを受取ることを拒む。よって、彼らは自分自身を騙してしまうのだよ。」
信者「なぜ『彼らが騙される』と言うのですか? それどころか、私たちが一般的に思うように、彼らは自分の望んでいた物事を成し遂げているのではないですか? 彼らは疑いもなく賢い者たちで、愚か者ではありません。」
ラトゥ・マハラジ「ねえ、最初に勝ち、最後には負ける人を君は何と呼ぶかね? 君は彼を賢い人と呼ぶか、それとも愚か者と呼ぶかね? 賢い者は試合に勝つ者ではないかね?」
なおまた別の日――
「シュリー・ラーマクリシュナがよく仰っていたことを聞きなさい。
君が何をしようと、最終的には彼に到達する。
君は、こっそりやれば、神は御存じないだろうと思うだろう。
お馬鹿さんだね。君が彼――宇宙のこの壮大なショーをお動かしになっていらっしゃるお方――に、どんな賢さを見せることができるかね?
君が何をしようと――善きも悪しきも、どうでもいいことも――疑いもなく彼に届く。
すべての事は彼のショーなのだよ。彼のスポーツなのだよ。
シュリー・ラーマクリシュナは仰った。
『仕事を始めるとき、彼に呼びかけなさい、彼を覚えておきなさい。――仕事の合間に、あなたがどんな小さな休憩を取るときもまた、彼に呼びかけなさい。そして仕事が終わったらまた彼に呼びかけなさい。こうする者は皆、何の心配もないのだよ。』」
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