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「忍耐」

◎忍耐

【本文】
四.心と身体がいかなる状況に置かれても、忍耐してください。

 これも読んだこのままなんだけど、これもこのフレーズを覚えておくととてもいいと思うね。「心と身体がいかなる状況に置かれても、忍耐してください」と。 

 仏教の修行で重要な忍辱ね。忍耐。忍辱っていう修行があります。これも『入菩提行論』に詳しく説かれてるけども、まあつまり耐えると。

 なぜ耐えるのか――それはいろんな意味があるけども、もちろん自分の過去の悪いカルマを落とすためともいえるし、あるいは苦楽の二元性をわれわれは超えなきゃいけない。

 あるいは当然、菩薩行を歩む場合、苦しみに強い人にならなきゃいけない。

 あるいは当然、自分を超えて偉大な存在になっていこうと、菩薩になっていこうとしているわけだから、当然その途中には苦しみ、苦難がたくさんあって当然であると。しかしわれわれは、そういうのがまだあまり来ていない時期っていうのは、「わたしは大丈夫ですよ」と。「どんな苦難も超えて偉大なブッダになります」とか言うわけだけど、本当に苦難がきたときっていうのは、やっぱり逃げたがる。あるいは、逃げないまでもちょっと悪い心を発したりとか、あるいは誰かに対する怒りを発してまったりとか、そういうのが出てきてしまう。そうじゃなくて、どんなときでも、心がどんなにグジャグジャにされたときでも、あるいは肉体がどんなにひどい――例えば病気とか、あるいはいろんな疲労であるとか、いろんな苦痛を負ったりとかしたときでも、仏陀の教えや慈悲というのを忘れずに、忍耐するんだと。

 これもだから、この教え自体は曖昧なんだけど、われわれがそのような状況に置かれたときに、すごく役に立つフレーズですね。どんな状況におかれてもわたしは忍耐しようと。もっというと忍耐を喜ぼうと。

 まあそうですね、この辺の教えが難しいのは、結局ね、やっぱり一番最初には教学がなきゃいけない。教学っていうのは、日々しっかりと正しい教えを学ぶ。正しい教えを学んでると、このフレーズ自体は曖昧なんだけど、なぜ忍耐すべきなのか、あるいはどのように考えて忍耐するかっていうことが頭に入ってくる。それに基づいて忍耐するわけだね。

 例えば『入菩提行論』が頭に入ってると、忍辱の章のフレーズがいっぱい出てくる。それに基づいて、その苦しみを耐え忍ばなきゃいけないんだっていうのがすごく強くなってくる。

 われわれはですよ、最終的には――いいですか?――一切の苦楽から解放されなきゃいけない。だからさっき言った野菜の話じゃないけども、最終的には人々のためならば喜んで――つまりこれは耐えてじゃないよ。耐えてじゃなくて、喜んで――喜びつつ、自分の体を切り刻まれても楽しいと。「ああ、わたしが切り刻まれることで人々が幸せになるなら喜びだ」っていうことを、やせ我慢ではなくて本気でそうなれるぐらいまでの広大な心をつかまなきゃいけない。

 でも今現状はそんなことないでしょ? 今現状は、そんな人はいない、ほとんどね。世界のうちに聖者の中で何人かいるかもしれないけど、ほとんどの人はそんな人はいない。ほとんどの人はやっぱり理想は高くても、やっぱり苦しい。

 例えば、「Tさん、Tさんの腕一本、麻酔無しで切らせてください」と。「そしたらRさんが悟りを得るみたいです」と(笑)。ね。そう言われてTさんが――まあTさんだったらもしかすると差し出すかもしれない。でも、それまでいろんな葛藤があるよね。あるいは、苦しみはもちろん伴うよね。「え! おれ腕切られたらRさん悟るのか」と。「麻酔だめなの?」と(笑)。「どうしようかなあ……それ痛いだろう……」ってワーッて葛藤があって、まあもしかすると「いいですよ」って言うかもしれない。でも「いいですよ」って言ったとしても、やられてる間はやっぱり痛い。苦しい。「あ! やっぱりちょっとやめます!」とか言うかもしれない(笑)、やられながらね。「ちょっと他の方法でRさん悟ってもらえますか?」って言うかもしれない(笑)、例えばね。でも理想としては、「ああ、そうなんですか! やったー!」と。「そんなんでいんだったらどうぞどうぞ」と。で、やられてながらも楽しいと。全くその苦痛がないと。ここまでわれわれはいかなきゃいけないんです(笑)。

 でもそれは、今具体例を挙げても分かるように、普通はちょっと無理に思える。「そんなことできるの?」と。よってさっきの教えじゃないけども、「じゃあできるところからやりましょう」と。

 で、これもね、また『入菩提行論』にあるわけだけど――まあ、今日は『入菩提行論』がいっぱい出てきてるけど、つまり『入菩提行論』ってまさに心の訓練の教えなんです。あれこそはまさに、今日のテーマと合致してるわけだけど、しっかりあれを学んで頭に入れてたら、日々の心の訓練に非常に役立ちます。

 『入菩提行論』の例としてこういうのがある。虻とか蚊とか蝿とか、まあそういう害虫ね。あとインドだからすごく暑かったり、あるいはヒマラヤとかですごく寒かったり、あるいは日常における、そんなたいしたことはないんだけども、いろんな苦しみがあるよね。例えば日本に生きてても、蚊がブーンッてくると。あるいは夏すごい熱いと。あるいは冬寒いと。あるいは人間関係のいろんな苦しみとか、いろいろある。そういうときにわれわれは、普通はそれをやっぱり避けたがる。で、嫌悪する。「ああ! 蚊が出た」と。「うわー、なんでこんな時期に蚊がいるんだ。しかもなんか蚊は殺すなって言われたし、うわー、嫌だなー!」とかね。あるいは「ああ、暑い!」と。「暑い。なんとかして涼みたい」と――じゃなくて、シャーンティーデーヴァが言うには、「そのような忍耐の訓練の機会を、なぜ無用だと言って無視するんだ」っていう考え方ね。

 つまりそれは、われわれの人生で自然に現われた苦痛っていうのは、さっき言った――もう一回話戻すけども、「衆生のために体を切り刻まれても楽しいです」っていうぐらいに、この理想に近づくための訓練の場として与えられてるんだと。

 つまり、われわれは理想ばっかり高いんだね。われわれは「菩薩になりたいです!」って言ってて、例えば仏陀や神々が「おお、そうか」と。「じゃあちょっとずつ訓練していこうな」って言って苦しみを与えてくれたのに、「ああ、苦しい! 嫌です」ってやってる(笑)。つまり、言ってることとやってることがちょっと逆っていうか、ね。

 だからいろんな日々の小さな苦しみっていうのは、われわれがもっともっと心を広げて、苦楽に無頓着になるための訓練の場なんだと。そのように考えると、苦しみが苦しみでなくなる。

 苦しみっていうのはさ、もちろんわれわれが心が未熟なときっていうのは、たくさん苦しみの因ってあるわけだけど、まず直接的なカルマによる苦しみ、プラス考え方によって、その苦しみが倍増したり減少したりするんだね。

 これは分かるよね。つまり、「逃げたい逃げたい。こういうのは嫌なんだ」と思ってたら、同じ一つの苦しみが何倍にも感じられる。でも今言ったみたいに、「修行なんだ」って思うとか考えてたら、そんなに苦しくなくなるかもしれない。ね。

 単純なる自分の観念、概念によって苦しみを増大させてる場合ってあるんだね。だから少なくともまずは、ものの見方――もちろんものの見方だけでカバーできない苦しみもいっぱいあるわけだけど、でも少なくともものの見方を正しく変えることによって、自分の苦しみがかなり減少します。ね。

 これも何度も言うようにいろんなパターンがあるよ。さっきも言ったような、例えばすべてはカルマだって考える。カルマの法則が頭に入ってたら、この宇宙っていうのは因がなければ果がない。自分に起きる果っていうのは、すべて自分が作った因にすぎないと。ということは、苦しみをわたしが感じるっていうことは、過去に積んだ苦の因がどんどん果報というかたちで滅してるわけだから、これは喜びなんだと。ね。例えば簡単にいうと、誰かに心を傷つけられたとしたら、「ああ、わたしが過去に誰かの心を傷つけた、この因がやっと今消滅した」と。「なんて嬉しいんだ」と。「よかった」と思えばいい。そうじゃなくてグジグジグジグジと、「えー! なんであいつあんなこと言うんだろう。許せん、許せん、許せん……」とかやってるから(笑)、どんどん苦悩が倍増する。ね。

 だからこれはそうじゃなくて、どんな苦悩の中に置かれても――いろんな考え方があるけども――バクティ・ヨーガが一番単純で、純粋で、崇高なんだけど、「すべては神の愛だ」と(笑)。バクティ・ヨーガはすごくいいよね。この一言で終わってしまうんです。カルマはどうこうとか忍辱がどうこうじゃなくて、「すべては神の愛だ」と(笑)、それだけで終わる。「うわー! 苦しい……まあ神の愛か」と。ね(笑)。それですべて終わってしまう。これは素晴らしいね。

 ちょっとまた最近ナーグ・マハーシャヤの伝記を読んでたわけだけど、あれを見ても、ナーグ・マハーシャヤは、彼の師匠であるラーマクリシュナにすごい帰依があったから、すべてをラーマクリシュナと見ていた。すべてをラーマクリシュナと見るっていうのはつまり、すべての物質をラーマクリシュナの現われと見るだけじゃなくて、起きる現象すべてラーマクリシュナって思うんだね。だから自分にいろんな病気とか怪我とかいろんなことがあっても、「ああ、ラーマクリシュナ様、ありがとうございます!」。

 そこに例えば例として書いてあるのは、ナーグ・マハーシャヤが寝てたら、大きな猫がいきなり顔に乗ってきて、左目を引っ掻いたと。で、その目が相当な重傷を負ったらしいんだね。まあどのくらいか分からないけど、相当な重傷を負ったと。でもそこでナーグ・マハーシャヤは喜んで、「これはわが師ラーマクリシュナ――もちろんラーマクリシュナはもうそのとき死んでるんだけど――わが師ラーマクリシュナが猫の姿をして現われて、わたしの過去の悪業を浄化してくれた」と。「本当にラーマクリシュナっていうのは偉大な恩恵を与えてくれる」って喜んだと。全く左目の怪我には頓着しない。例えば目が見えなくなるんじゃないかとか、バイ菌が入るんじゃないかとか全く考えない。それによって普通に治ってしまったと、例えばね。

 ナーグ・マハーシャヤって心の修行が中心だから――まあラーマクリシュナの弟子達ってだいたいそうなんだけど、あんまりハタ・ヨーガとかはやらないんだね。だから結構みんな病気がちで、みんな結構早死とかしてるんだけど。ヴィヴェーカーナンダも三十代で死んでるし、心の修行がメインなんだね、あの人達っていうのはね。だからナーグ・マハーシャヤも病気にばっかりなるんだね。現代的にいうと例えばリウマチとか神経痛とかだったのかもしれないけど、ものすごい激痛に体が襲われたりする。で、動けなくなったりするときもあったらしい。もしかすると何かの癌とか重病だった可能性もあるけども。その動けないほどの苦しみの中でもラーマクリシュナを思う――つまりこれは、師が生きてる間に十分にこの肉体を使って奉仕できなかったから、ラーマクリシュナが今わたしに罰を与えてるんだと。しかしこの苦痛というのは恩恵であると。なぜかというと、この苦痛がある間、わたしはラーマクリシュナのことを想うことができると。だからこれは恩恵以外の何ものでもない、と――もう超肯定的(笑)。超肯定的というよりも、百パーセント全肯定なんです。「すべては神の愛だ」と。これはだからバクティ・ヨーガの念正智だね。

 だからこれはそれぞれの教えの縁とか、あるいはどういう教えが好きかとかいろいろあるだろうから、それぞれでいいんだけども、それぞれの考え方によって、日々自分に生じた苦しみというものを、単純な嫌なもの、逃げるものって考えるんじゃなくて、受け入れて忍耐しなきゃいけないというところですね。

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