「分別智がある瞑想」
◎分別智がある瞑想
【本文】
『タトラ サブダールタジュニャーナヴィカルパイヒ サンキルナー
サヴィタルカー サマーパッティヒ
言葉、その言葉の示す客体、そしてそれに関する知識、それらを区別し熟考する分別智が混じているものは、サヴィタルカとよばれる瞑想である。 』
はい。これもね、まさに仏教でも全く同じことを言っています。これは瞑想の第一段階です。瞑想の第一段階っていうのは、まだ概念的思考が働いている状態ということです。概念的思考が働いている状態のサマーディ。これがサヴィタルカっていわれる最初のサマーディ。
◎ニルヴィタルカ
【本文】
『スムリティパリシュッダウ スワルーパシュニェーヴァールタマートラニルバーサー
ニルヴィタルカー
憶念が清められたときに、すなわち意識自体がなくなってしまったかのようで、客体だけが一人輝き現われる。これがニルヴィタルカとよばれるものである。』
はい。ここでいう憶念っていうのは、念正智というときの念だね。つまりわれわれのけがれた念が清められたときに、心が止まった状態が生じる。その集中している対象だけがあって、分別的な、これはこうでとかいう――ここでいう分別智というのは悪い意味じゃないです。いい意味です。これはこうだ、あれはああだっていう一つの智慧があるわけだけど――それさえもなくなって、心の止まった状態がある。これを仏教では、原語は同じなんだけどね、仏教ではよく「無尋(むじん)」といっています。逆にそれがある状態を「有尋(うじん)」っていうんだね。だから有尋と無尋っていうちょっと難しい言葉なんですが――前も言ったけど、仏教語って無駄に難しいんだね(笑)。説明すれば結構簡単だったりするんだけど。無駄に難しい。無尋っていって、いわゆる分析とか分別の心が止まった状態のサマーディ。これが無尋サマーディ、ニルヴィタルカ・サマーディですね。
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