「修行の基礎・戒について」(5)
◎他者を害する――地獄への道
もし人間がもう一歩高いところに踏み出そうと思ったら、五戒を守らないといけない。でも逆の言い方をすると、その五つの悪業を頻繁に行なうならば、我々は神ではなく低い世界に結び付けられますよっていう教えでもある。
つまり殺生をたくさんするならば、あるいは――殺生ってあれ、アヒンサーっていうんだよね、アヒンサー。アヒンサーって、ヨーガでは非暴力って訳されている。で、仏教では不殺生って言ってて。あれ、Bさんはどう訳します?
(B)まあヒンスが害するですから、やっぱり非暴力とかじゃないですかね。
そうですね。まあわたしは、「害さない」っていう意味で、ほんとはいいような気がするんです。つまり、あらゆる意味で他者を害さないと。もちろん暴力もダメだし、あるいは殺生もダメだし、それだけじゃなくて例えば悪口も含めて、あるいは何らかのかたちで相手を陥れることも含めて、一切他を害さないってことだと思うね。
ダライ・ラマがよく、仏教の真髄は愛と非暴力だって言い方をするんです。でもわたしはねえ、ダライ・ラマ法王の真意は分からないけど、勝手にだけどもわたしが思うには、ダライ・ラマはそう言いたいんじゃないんじゃないかと。つまり、愛と、つまり慈愛と、害さないことじゃないかって思うんだね。単純に非暴力って限定されたものじゃなくて。つまり一切他者に対して、あらゆる意味で他者を害さないと。
それから、もうちょっと積極的に、愛すると。ここでいう愛っていうのは愛着じゃなくて、慈愛、つまり相手の幸福を願うと。これが仏教の真髄だという言い方をダライ・ラマ法王はされていますが、逆に相手を害する、心において憎み、口において悪口を言い、行動においてまあ、陥れたり、暴力を振るったり、殺生をすると。これはまさに地獄のカルマなんです。
つまり、これをひたすらやっている人っていうのは地獄に結び付けられる。仏典を読んでるとよく、結とか、結び目とか、そういう言葉がよく出てくるんだけど、要するに我々がね、何かの世界に生まれ変わるっていうことは、結び目ができてるんです。
まあ、もっと分かりやすくイメージしやすく言えば、鎖でつながれていると言っていい。つまり生きているうちから――例えば来世地獄に生まれ変わる人は、生きているうちから、もう地獄との縁が完全にセッティングされているっていうか、紐とか鎖で結び付けられているわけです。
だからその人は、別に死ななくても、生きているうちから地獄の兆候があらわれてくる。例えば地獄っていのは殺伐とした状態だから、普段から意識が殺伐としてくる。あるいは被害妄想とかもそうだね。なんかもう、自分がみんなから苦しめられているような、この世が地獄に見えてくる。こういうのは地獄の兆候ですね。
ちょっと話が広がっちゃってるけど、輪廻転生っていうのは、結局ねえ、なんていうかな、奇跡的変化ではないんです。わたしが思うにね。
例えば生きているうちから、体中が痛くて、心が殺伐として、暗くて、人を憎んでばかりいる人が、死んで天に生まれ変わりましたっていうのはありえない(笑)。
つまり、そのまま移行するんだね。その人の状態がそのまま移行する。
――っていうことはたとえば、まるで心が神のように幸せで、あるいは愛に満ちてるとか、あるいは非常に気持ちよくてとか、ってなってない限り、そのような幸福の世界に生まれることはありえない。
ちょっと話を戻すけども、地獄の場合はそういった、憎しみとか他を害する世界。よってそのような、つまりその、他を害さないという戒律ではなくて、逆に他を害するっていう行為をひたすら行なっていたら、我々は地獄に落ちるしかない。よってこれは逆の意味だけど、神に至るためというよりも、地獄に落ちないために、我々は他を害してはいけない。
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