「ミラレーパの生涯」第三回(11)
「独居の喜びを味わったので、友や親族の意見を探し求める必要を忘れてしまいました。」
はい。これもちょっと、なんていうかな、ミラレーパは独居修行者だったんで、われわれみたいな状況とはちょっと違うわけだけど、もともとわれわれの人間界的なカルマとして、家族が周りにいっぱいいて、友人たちがいて親戚たちがいてっていうまあカルマがあるんだね。で、そのカルマの中でわれわれは、なんていうかな――あの、説明しづらいんで、簡潔にだけ言いますけども――そのカルマの中で、つまり人々の輪の中で、人の意見を聞いて、ああだこうだ不安がったり喜んだり、自分は相手にいろいろ言ったり、みんなで仲良く笑ったり泣いたり喧嘩したり――これが人間のカルマなんです。で、われわれはそれが好きなんだね。人間だからね(笑)。ね、
でもこれはまさに大いなる罠なんです。つまり豚が豚小屋でブーブー言って楽しんでるようにね(笑)、神から見たらそんな程度に見えるんだね。で、それからもわれわれは離れなきゃいけない。
これはね、このミラレーパの話だけじゃなくて、密教系の話にはよくこういう話が出てきます。どういう話かっていうと、故郷は悪魔の要塞であると。故郷を捨てろと。ね。ただ現代のわれわれはミラレーパみたいに山から山へと放浪して生きるわけにはいかないので、完全に故郷を捨てるっていうのは無理なわけだけど、まあだから、「あまりとらわれない」ぐらいにしたらいいね。
これはね、いい意味でも悪い意味でもそうですよ。いい意味でも悪い意味でもっていうのは、例えばこれもよく聞く話なんだけど、
「いや、先生、わたしは最近ね、だいぶ同僚とかに対して怒らなくなりました」
と。ね。あるいは、
「道端でなんか嫌なものを見ても嫌悪しなくなりました」
と。
「でも、お母さんに言われるとカッとする」
と。ね(笑)。
「どうしても、お母さんの言い方だけは許せない」
と。これは完全にもうはまってるんです。つまり家族という優しい、ね、なんていうかな、甘えた空間の中に甘えてるんだね。だから家族にだけ怒っちゃうっていうのは、まさにこれは甘えです。これから脱却しなきゃいけない。
だから家族も、それは自分の親であろうがね、子供であろうが、あるいは旦那や妻であろうが、あるいは兄弟であろうが、ね、あるいは友人であろうが、もちろん仏教的にいえば、他の衆生となんら変わりない平等な魂なわけですね。だからもちろんそれは同様に愛さなきゃいけないんだけど、そこに、なんていうかな、人間的な強すぎる愛著というか――を持ってはいけないと。そうするとそれが罠となって、いらぬ嫌悪が出たり、いらぬ執着が出たり、あるいはいらぬ時間の使い方をしてしまうわけですね。
だからこれは現代においてはその言葉のとおりに実行するのは難しいんだけど――まあつまり結論としては、ただ家族や友人の幸福を願うと。ね。しかし執着はしないと。ただ家族や友人の幸福をほかの衆生と全く同じように願うと。ね。しかしそこにおけるなんらの精神的なとらわれもないと。そういう状態まで持っていけたらいいね。はい。