yoga school kailas

「マルパとニュの話」

2015年4月18日

「供養と懺悔の会」より

「マルパとニュの話」

 はい。今日はテキストの勉強に入る前に、ちょっと関係のない話ですけども――まあここで何回か言ってるけど、「リーラーディヤーナ」っていうのがありますね。「リーラーディヤーナ」っていうのは、いわゆるりーラー、つまりアヴァターラ、クリシュナやラーマといった、つまり至高者がこの世に肉体を持って現われ、まあいろんなリーラーをなしましたと。つまり『クリシュナ物語』や『マハーバーラタ』あるいは『ラーマーヤナ』等の物語をね、心の中でまあ反芻すると。イメージすると。あるいはそうですね、誰かに説明してるような感じで物語を語ると。心の中でね。これは一つのいい修行っていうかな、「リーラーディヤーナ」です。
 で、わたしもよくこれをやるんだけど、いわゆるラーマとかクリシュナ等のアヴァターラだけではなくて、まあアヴァターラかどうか分からないが、いわゆる聖者ね。まあつまり聖者の生涯ですね。聖者の生涯に思いをはせて、ね、例えばミラレーパだったら、チベットのお金持ちのお坊ちゃんとして生まれましたと。そういうところからこう、ね、何度もその物語を心の中でイメージしたりあるいは説明したりすると。で、これはまあしっかりこう座ってやるというよりは、まあ経行のときとかね、あるいはなんかちょっと作業してて心がある程度余裕があるときとかにやるのもいいのかもしれない。
 で、そういう感じでちょっと昨日、ミラレーパのグルであるマルパの生涯についていろいろイメージしてたら――まあ皆さんも聞いたことあるだろうけど、マルパの、なんていうかな、ライバルっていったら変なんだけど、マルパにいろいろ嫌なことをやってくる「ニュ」っていうやつがいる。ちょっと名前も変なんだけど(笑)。

(一同笑)

 ニュっていう男がいて。でも昨日マルパの生涯をいろいろ考えてたら、「あ、このニュって結構大事だな」と思ったんだね。
 ちょっと長くならないようにね、簡潔に言うと――マルパが真理のダルマを求め、インドのグルのもとにダルマを求めて旅に出るわけだね、まずね。はい、旅に出て、まあその途中でこのニュと出会う。で、そのチベットからインドへの旅の途中で、ネパールでこのマルパとニュは、まあ非常に寒くて乾燥してて高地であるチベットから熱帯のインドにいきなり行くと、ちょっと体を壊すっていう考え方があったんですね。よってしばらく中間地帯のネパールでまあ体を慣れさせようっていうことでネパールにいたわけだけど。このネパールで、運命的な、つまりマルパのグルとなるナーロー、そのナーローの弟子であるチテルパとパインダパっていう聖者に出会うんですね。で、このチテルパとパインダパの勧めで、マルパはナーローのもとを訪ねるんだね。で、マルパは法友であるニュにもこのナーローのことを勧めるわけだけど、でもニュはそれを断る。
 つまり――ナーローっていうのは、この時点でのナーローっていうのは、まあもともとはいわゆるナーランダー、あるいはヴィクラマシーラっていう説もあるんだけど、まあ一応ナーランダーっていうことにしますが――ナーランダー仏教大学っていう素晴らしいインド一の仏教学、仏教僧院の第一の賢者とまでもいわれるほどの人だったわけだけど。しかし、偉大なグルなしには本当の意味での覚醒はないっていうことに気付いたナーローは、その僧院、僧院大学をやめて、その最高の仏教学長の地位を捨てて、まあグル、ティローを探しに行くわけですね。この話は当然、『ナーローの生涯』の解説とかで皆さん知ってると思いますが。
 で、まあそののち、そのティローのもとで悟りを開き、なんていうかな、森の中やあるいはいわゆる墓場っていうか、墓地というか火葬場とかで修行する、いわゆる密教ヨーギーとして、ナーローはいたわけだね。
 で、この時点におけるこのニュとマルパの選択っていうのは、当然ニュの方が、実は実際はまあ無難ではある。無難っていうか一般的ではある。つまりニュが取った選択は、ナーランダーに習いに行くことだったんだね。つまりナーランダーに習いに行けば、もちろん正統的な仏教の師匠がたくさんいて、まあいわゆる正統的な、誰からも文句を言われない、教えの、なんていうかな、スキルを身に付けることができて、まあキャリアになるっていうかね。で、それをチベットに持って帰って多くの人に教えることができると。しかしナーローっていうのは、この時点においては、分かる人は分かる、つまり大聖者って分かるわけだけど、仏教社会の中では、まあある意味ドロップアウトした人物であると。つまり、正統的な仏教大学から出て行って、なんかよく分からない、森に住むティローとかいう乞食修行者の弟子になっちゃったと。で、何やってんのかなと思ったら塔から飛び降りたり(笑)、火に飛び込んだり、村人のご飯盗んで袋叩きにあったり(笑)、

(一同笑)

 よく分からない修行ばっかりしてると(笑)。ね。うん。だからそれは、もちろん実は分かる人には分かる、究極の大聖者だったわけだけど、普通はよく分からない。だから当然ニュの方が、ニュの選択の方がまあ一般的ではあったわけですね。しかしマルパはおそらく、もちろん縁があったから、あるいは運命があったんで、一般とは全然違う、森に行ってナーローを探し弟子入りするっていう道をとったわけだね。
 はい。まあそれはそれでいいんですけども、しばらくマルパがナーローのもとで学び――まあつまりマルパはある意味天才的な修行者だったんで、ナーローの教えをすごく吸収して――例えばまずナーローに『ヘーヴァジュラ』っていうタントラの教えを学びましたと。で、マルパはその天才的資質によって、一年くらいかけてその『ヘーヴァジュラ』を完璧に自分のものにすると。で、マルパは森に住むナーローのもとにいたわけだけど、ニュが行ったナーランダーもその近くだったらしいんですね。ニュはナーランダーで正統的な教えを受けていたと。で、たまたまばったりマルパとニュが町で出会うわけだね。そしたら当然お互いの、なんていうかな、今までの学問あるいは経験を語り合ったと。で、どっちもその『ヘーヴァジュラ』を学んでたんですね。で、「じゃあお互いの理解と経験を語り合おう」ってなったら、マルパの方がはるかに優れていた。うん。同じものを学んでるんだけど、理解の深さや達成の度合いはもう比べものにならないほどマルパが優れていた。で、そこで、普通だったら――普通だったらっていうか、まあ仏教を学んでるような人だから、本当だったら法友の進歩を――まあ違うグルについたとはいえね――法友の進歩を喜ぶべきなんだけど、このニュっていうのはほんとに心がねじくれたやつで(笑)、もうマルパの方が優れてたことが許せなくてね、で、憎まれ口を叩きだして、そして、「おまえ『ヘーヴァジュラ』なんてもう古いぞ」と。――さっきまで自分も『ヘーヴァジュラ』を学んだって自慢してたのに(笑)。

(一同笑)

 「これは『ヘーヴァジュラ』では負けてる」と思ったら、「『ヘーヴァジュラ』なんて古い」と。そんなものチベットに持って帰っても誰も見向きもしないぞと。「これからは『グヒャサマージャ』だ」と言うんだね。「これからは『グヒャサマージャ』のタントラなんだ」と。で、マルパはその時点で『グヒャサマージャ』を知らなかった。で、ニュも別に『グヒャサマージャ』を達成してるわけじゃないんだけど、ちょっと知ってたからそれをベラベラ言うと、マルパはもう何も言えなくなってしまった。で、そこでシュンとしてマルパは帰るわけだね。で、シュンとして帰ったんだけど、まあもちろんここでちょっと闘争心的なものもあって、「わたしもその『グヒャサマージャ』を達成したい」と思った。で、そこでナーローにお願いして、その『グヒャサマージャ』を教えてもらうんだね。で、そういう感じで今度は『グヒャサマージャ』を達成しましたと。で、まあ同じような感じでまたしばらくして町でニュとばったり会って。『グヒャサマージャ』のお互いの力を比べたら、やっぱりマルパの方が天才だから、マルパの方が完全に身に付けてると。そしたらニュは今度は「『グヒャサマージャ』なんて全く実はそんな大したことないんだ」と。「ほんとにすごいのは『マハーマーヤー』である」と。例えばね。そういう感じで進んでいくんだね。で、まあもちろんこれは闘争心的なものが含まれてるんだけど、マルパはそのようにして――つまり、これはある意味で言ったら、もうほんとにニュは嫉妬心が強いなっていうだけなんだけど、でももうちょっと広い目で見たら――つまり、このニュのおかげでマルパは、満足させてもらえない。だって普通だったらさ、インドに行って偉大なナーローを見つけて、例えば今言った『ヘーヴァジュラ』だけでもね、『ヘーヴァジュラ』一本でも、完全に一年かけて自分のものにしたら、普通満足ですよね。「わたしは本当に偉大なグルに出会って、この教えをマスターしました。本当に果報者である!」って思ってたらニュが「古い」みたいに言って(笑)。「お前、『グヒャサマージャ』知らないのか?」みたいに言われて、「えーっ!」と(笑)。つまりこのようにしてマルパは――そういった阿修羅的な闘争心も含まれつつですけども――飽くなき探求によって徹底的にナーローのもとで、ナーローのすべての教えを自分のものにするんだね。つまりこれはマルパはその使命があった。つまり、インドのその当時の密教的教えを全部自分のものにしてチベットに持ち帰り、チベットに広めるっていう使命があったから。その使命どおりに、まあ結果的にはナーローからあらゆる教えを受け取るわけだけど。でも言ってみれば、それを後押ししてくれたのはニュだった。
 はい。そして次に、次のエピソードも皆さん知ってると思うけど、まあこのマルパとニュは相当縁があるのか、同じ時期にインドに来て、一緒に帰るんです(笑)。違うところで習ってるんだけど、偶然なのか帰りも一緒になると。で、帰り道でまたお互いに話しながら一緒に帰るわけだけど、やっぱり話してる途中で、もうニュは大変な嫉妬と絶望に陥る。つまりもう圧倒的にマルパの方が、教えの深さ、理解の深さにしろ、達成度にしろ優れていると。このまま一緒に帰ったら、当然マルパの方が大成功して、自分はみすぼらしくなってしまうって考えたんだね。で、そこでニュはどうしたかっていうと、一緒に川を船で渡ってるときに、荷物持ちにお金を渡して、事故のふりをしてマルパの――まあつまり昔だからさ、印刷とかないから、経典を全部手でこう書き写してたんだね――で、その『ヘーヴァジュラ』なり『グヒャサマージャ』なりの貴重な経典を書き写してそれをチベットに持ち帰って、で、それをもとに教えを広めようとしていたその本を、荷物持ちにお金を渡して、事故に見せかけてバーッて川に落としてしまったと。
 で、最初はその荷物持ちは事故のふりしてしらばっくれてたんだけど、向こう岸に着いたら白状しちゃって(笑)、つまりニュの仕業だって分かったと。
 でも、ここが重要なんだけど、ここで普通だったら、もうほんとに苦労して持ち帰った多くの経典を、そんなくだらない嫉妬心で川に落とされてしまったっていう状況で、当然普通だったら悲しんだり怒ったりするんだろうけど、マルパは全く心が動かなかった。で、その意味は二つあって、一つはですよ、まず一つとしては、もうマルパは、さっきから言ってるように、それらの教えを自分のものにしてたんだね。だから実際はマルパにとってはいらなかった。もちろん、なんていうか、貴重な経典っていう意味での価値っていうのはあっただろうけど、しかしマルパにとっては、もうそれはただの言葉であって。つまりその内容を完全に成就しているという確信があったんだね。確信があったから、別にそのテキストはなくなっても全く問題がなかった。
 そしてもう一つ、もともとはマルパっていうのは、まあ大変な怒りん坊というか、怒りが強いと。癇癪持ちっていうか。だから――最初なんでマルパが修行に入ったかっていうのも、小さいころのマルパがあまりにも家で暴れて、もう怒ってばかりなので、親が、「このままだとこの子は親を殺す」と(笑)。

(一同笑)

 「将来親を殺すだろう」と。これはまずいと。よって、お寺に入れたんだね。それだけもともと怒りが強かったから、普通だったらこんなひどいことをされたら、当然マルパでなくても怒りまくってると思うんだけど、しかしマルパの心は――実際この最初の旅でマルパはグル・ナーローのもとに十年近くいたんですね。十年近く、徹底的にグルに奉仕しつつ、徹底的に修行をして、まあある程度の達成をなしたと。つまりその効果だね。それによって、マルパの心っていうのは、そんな程度では別に怒らないし悲しみも生じないような境地にあったと。
 ただ、ここが一つ問題なんだけど、このような例えば心の進歩、成熟っていうのは、例えば日々のいろんな修行、あるいは日々のいろんな真理の教えどおりに生きる実践によってだんだん当然心は良くなっていくわけだけど、その良くなったものが確定するかどうかはまた別問題であって。で、確定するには、現象が必要なんです。あるいは揺さぶりが必要なんだね。何を言いたいかっていうと、今の話でいうと、おそらくマルパはこの時点で、もうそのような、ほんとに――もう一回言うよ――もう誰が考えても大事な、まあ普通の学者的な発想から言うと命よりも大事なくらいの大事な貴重な、苦労して集めた経典を、たかだか嫉妬心によって捨てられてしまったと。この段階にあって、怒りも悲しみもないほどの心の安定を得ていたんだけど、でもそれまでは別にそういう現象がないから、マルパはそれに気付いていない。
 まあこれはわたしもよくいろんな人を見てて思うけど、ある程度もちろん修行の進歩によって、以前よりもこの人は心がこのように進化してるっていう部分があると。しかしそれはいろんな現象がないと、まああんまり気付けないっていうかな、自分ではね。しかし例えばこういう現象があることによって、一つはこれは、なんていうかな、教えがちゃんと身に付いてるかどうかの試験でもあるわけだけど、試験っていうのは別にただ試すっていうだけではなくて、そのような状況があって、「あれ、心が動かない」っていうことを自分でも納得することによって確定させるんです。
 つまりマルパが十年近くかけて――まあもちろん十年近くかけた修行によっていろんな神秘的な、あるいはクンダリニー的なさまざまな進化もあっただろうけど、精神面においても、以前とは全く違う、非常に安定した心を得ていたっていうことを、このひどい状況を経験させられることで、納得し確定させられた。
 つまりニュの存在意義っていうのはすごいっていうか(笑)。うん。それほどまでにマルパの心が成熟してたっていうことが、このニュの悪しき行ないのおかげで逆に確定されたと。
 はい。そしてもう一つある。もう一つは――それがばれたときにニュは――まあニュはほんとにもうこの物語ではちょっと悪人、悪役っていうか駄目な男としてずっと登場するんだけど、ばれちゃったら今度はニュは、マルパに懇願するんだね。何を懇願したかっていうと、「みんなに言わないで」と。

(一同笑)

 これ情けないよね(笑)。「みんなに言わないで」――「ぼくが君に嫉妬して君の経典を川に捨てちゃったことを、みんなに言わないで」と。ね。つまり「そんなことを言われちゃったら、ぼくはもう偉大な仏教の教師として誰にも尊敬されなくなっちゃうから言わないで」と。ね。臆面もなくマルパにこう言うわけだね。で、その代わりですよ、その代わり――ほんとにあれは悪かったと。ごめんなさいと。その代わり、チベットに帰ったら、ぼくが写してきた経典を写させてあげるから、それでちょっと許してくださいって言うんだね。で、マルパは最初そこで――かなり超越的な境地だったので、「いや、それはもういらない」って最初断るんだけど、でもやっぱり教えを広めるには必要だから、「あ、やっぱりあとで行きますから、じゃあ写させてください」と約束して別れるんだね。
 で、マルパがチベットに着いて、まあ約束を果たしてもらうためにニュのもとに行くんだね。で、ニュのもとに行って、「約束どおり、じゃあテキストを写させてください」って言ったら、今度はニュは「いやいやいや」と。「君はある程度教えを達成してるじゃないか」と。それを広めなさいと。「ぼくはぼくでこっちを広める」と。――つまりうまいこと言って、結局写させなかったんだね。もうほんとにひどいやつって感じなんだけど(笑)。
 でもここでマルパは、もう強烈な思いに燃えた。何かっていうと、つまり――繰り返すけど、もちろん自分ではある程度教えを達成してたから、自分の修行としてはいいんだけど、みんなに広めなきゃいけないから、そのためにはやはりテキストが必要であると。そこで、再びインドに行こうと思ったんだね。そこでまあまたインドに行くんです。で、インドに行って、またナーローのもとに帰るんだけど、もちろんここで、それが単純にそのテキストを持ち帰るっていうだけだったら、まあ腰かけ程度で一年ぐらいいれば良かったのかもしれないけど、ここで帰ってきたマルパをね、ナーローは喜んで受け入れて、前回、つまり前回の十年近い修行においておまえが受け取って達成したものを、もう一回、徹底的に復習し直せと言うんだね。で、結局六年間、二度目の修行でまた六年間、グルのもとで奉仕と修行に明け暮れるんですね。で、これによって、まあもともとある程度は達成してたんだけど、その更なる六年の修行によって、もうほんとに素晴らしい成就者になったんだね。
 つまりこれも俯瞰して見るならば、マルパにとって必要であった。つまりマルパが偉大な成就者として、のちにカギュー派を作る源となる大聖者としてチベットに帰るには、最初の十年近い厳しい修行プラス六年間の復習的修行が必要だった。でもこの――もう分かると思うけど、この必要であった、神によって用意されていたこの六年間の修行も、ニュのおかげで行けた(笑)。つまりニュが経典捨てちゃって、しかも嘘ついて写させないよとか言って、そのおかげでもう――つまりここも、もしニュがそうしなかったら、つまり捨てなかったら、あるいは約束どおり写させてたら、マルパはもうインドに行かなかったかもしれないよね。そうすると、まあそれはそでいいんだけども、でもまあその修行の更なる達成はできてなかったかもしれない。ね。中途半端な状態で教えを広めてたかもしれない。しかし実際には運命的にまたインドに行くことになり、そして再びグルのもとで六年間修行して、大いなる達成を得たと。はい。
 で、今日ね、何を言いたかったかっていうと、つまりこのマルパの生涯の全体を見るならば、まさに神の――神のっていうかグルやブッダの意思によって、もうなるべくしていろんなことが起きて、そして達成していってるんだけど、そのそれぞれの出来事において、それをスムーズに進めるような悪役としてニュが登場してるんだね。でもこのニュの――ニュっていうのはもう一回言うけど、われわれの現世的な、世俗的な目で見るとただの嫌なやつです。ただの嫌なやつ、まあつまりドラマによく登場するただの悪役みたいな。ね。まあしかも法友だから、ちょっと、なんていうかな、ややこしいところがあるよね。ほんとに悪人ではなくて一応法を求める仲間ではあるんだけども、なんか意地が悪かったり嫉妬が強かったりと。うん。で、それはその場だけ見ると、ほんとに「なんでこんなやつがいるんだ」「わたしの人生にとってこいつは嫌なやつだ」ってなるわけだけど、でも大きな目で見ると実はそうじゃない。なんらかのかたちで神が用意した導き手であったと。はい。
 だから皆さんもそういう目で、もちろん法友もそうだけども――皆さんの人生でもいろいろそういう人が登場すると思うんだね。それは法友かもしれないし、家族かもしれないし、あるいは友人かもしれない。いろんなかたちで、「なんだこいつは!?」とか、あるいは、つまり単純に自分と合わないとかじゃなくて、「なんでこんなことすんの?」みたいなそういう人とか、まああるいはもちろん、カルマ的に自分とちょっと合わない人とか、いろんなかたちで登場するわけだけど。
 ラーマクリシュナも――ラーマクリシュナはちょっとまた別の言い方で、「リーラーには悶着起こし屋が必要なんだ」っていう言い方をしてるね。なんかクリシュナを愛するヴリンダーヴァンの人たちの中にも、なんかそういう、いつもトラブルを起こすちょっと変な人たちがいたらしくて。で、「そういったやつがいないと、物語は面白くならないんだ」みたいな言い方をラーマクリシュナはしてるわけだけど。
 われわれの人生には――われわれはほんとに、世俗的な意味で、理想としては当然周りに自分と気が合う、そしていい人ばかりがいて、なんの問題もなくスムーズに日々人生が過ぎていったらいいなって思うわけだけど、至高者はそんなことは許してくれない。そうじゃなくて、ね、繰り返すけども、皆さんを導くある計画のもとに、いろんな役割で、いろんな――まあある場合はいい人、ある場合は皆さんの神経を逆撫でする人、そういう感じでいろいろこう用意してくれるわけだね。――それはそのときは分かんないかもしれない。あるいはしばらくしても分かんないかもしれないよ。でも相当、なんていうか、皆さんの修行が進み、全体像が――まあそうですね、皆さんの死ぬ前とかに分かるかもしれない。死ぬ前に振り返ったら、「ああ、ほんとに長年わたしをいらつかせたあいつのおかげでこの道があったんだな」と。「あのおかげで、振り返ってみたら」――まあまさにさっき、マルパのリーラーをグーッとイメージしてたら、「あれ、ニュ、すげーじゃん!」って思ったように(笑)、「あいつのおかげで実はわたしの神の使命は達成された」と。「ああ、ということは彼こそが神の使いだったのかもしれない」――そういう、なんていうかな、柔軟なっていうかな、広い心で見たらいいね。
 もちろん瞬間的にカルマ的にちょっと心が動いたりとか、あるいはカチンときたりすることが、日々あるのはしょうがないかもしれない。しかしだからといって、相手、あるいはそういった一見自分に害を与える人を全否定してはいけない。絶対になんらかの意味――今の自分は無智で分かんないかもしれないが、何らかの理由があって、あるいは何らかの神の意思があって、その人はそこに配置されてるんだと。そしてこのマルパのように――まあこれは心の訓練的な話になるけども、どんな出会いも、どんな出来事も――もちろんどんな出会いもどんな出来事も神の意思なんですよ。しかしそこにわれわれの積極的な、それをそのように受け入れようという意志があれば、よりそれはスムーズに、スピーディに動き出します。つまりあらゆる現象、あらゆる経験、あるいはあらゆる人との関係を、自分の修行を進める、あるいは自分がより早くこの道を達成しみんなのためになれるような存在になるための条件として受け取ると。一つも何も無駄はないんだという感覚をもって接したら、非常にスピーディに皆さんのそのシステムっていうかな、神の計画の上にある皆さんの修行っていうのは進みやすくなると思いますね。

 はい。じゃあ今日はこれで終わりになります(笑)。

(一同笑)

 結局マルパの話だったね(笑)。マルパとニュの話(笑)。

 はい。では最後に、今日の話と関係がなくてもいいので、質問があったら質問を聞いて終わりにしましょう。

(A)ニュの話なんですけど、ニュはそういうマルパという大聖者に悪いことをしたから、どうなっちゃうのかなって。

 ……どうなっちゃうんだろうね(笑)。

(一同笑)

 それはニュの人生ではあるんだけど――つまりさ、ちょっとこれも簡潔に言うとね、そういった、なんていうか、われわれは、悪と善、そしてそれをどう、さらに善に転化するのか悪に転化するのかの繰り返しで、で、そこに神の意思が入ったりの繰り返しで生きてると。で、――これもみんな知ってる話なんで簡潔に言うけど、一番いい例としてはミラレーパの例がありますよね。ミラレーパは何度も言ってるけども、お母さんの恨みを叶えるために魔術によって三十六人の親戚を殺したと。そういう大悪業を積んだわけだけだね。で、そこでマルパと出会い、で、そこでその大悪業を逆に利用されるかたちで、マルパがミラレーパに多くの苦しみを与えたり、あるいはマルパの命令によって魔術を使ってミラレーパが村を壊滅させたりとか、やらされるんだね。でもそのおかげでって言ったら変ですけども、その悪業を逆に利用されることで、ミラレーパは解脱するんだね。
 で、もともとミラレーパがそのような悪業を積まなきゃいけなかったっていうことは、当然過去世からそういう地獄のカルマがあったっていうことです。地獄のカルマがあって、カルマの輪の中にいたわけだけど、しかしそれが偉大なグルと出会って逆利用されたことで解脱に導かれましたと。
 で、一つひとつのカルマっていうのは実際には多くの縁によって、いろんな人のカルマと結び付いてるわけだけど。今のまさにニュの話もそうだけどね。このニュの話っていうのはつまり、もともとこのニュはそういう性格でそういうことをやるっていうことは、もともとおそらく何生も生まれ変わってそういう人だったっていうことです。つまり毎回毎回嫉妬したり、毎回毎回人の邪魔したり、毎回毎回嘘をついたりを繰り返す、そういうちょっとせこい人生を送ってきたと。そして多くの、周りへの被害を与えてきただろうと。そして自分ばっかりプライドが高くてっていう状況だったと思うんだね。しかしそこでマルパとの出会いがあったと。そしてここではまさにリーラーにおける、例えば『クリシュナ物語』とか『ラーマーヤナ』における悪役の人たちと同じように、悪役を演じさせられたわけだね。つまりさっき言ったように、マルパの人生において、必要不可欠だった、そのような自分に意地悪をしてくれて、逆にそれで修行を進めてくれる人の役目をニュは負ったわけです。っていうことはこれは、まあニュの人生として考えるならば、おそらくニュは、一応はまあ法を求める人だったわけだから、いろんな悪業はありつつも、もともと法を求める気持ちも強かったと思うんだね。で、それによってそのような役割を与えられましたと。そこでそのニュが、ね、おそらくもともと持ってるいつもどおりの意地悪さを発揮したわけだけど、それが逆にマルパの修行を進める手伝いになりましたと。
 このあとは、ニュ次第だね。つまりそれによって、マルパの手伝いをさせていただいたっていうことによって、ニュの中に当然光明のある種の光の釣り針みたいなものがあらわれたと。うん。で、これからは今度はニュの生涯。ニュの、輪廻を含めた壮大な物語がたぶんまた展開されると。つまりそこでまた失敗するかもしれない。あるいは偉大なグルと出会って、そのカルマを利用されて、なんらかの展開があるかもしれない。でもまあその後のニュの生涯については特に語られてはいないので分かんないけどね。
 でもまあ繰り返すけど、『ラーマーヤナ』とかの悪人と同じように、実際にはそこで悪役を演じさせられるだけの、まあ縁と、それからまあある程度の徳があったんでしょうね。いいですか?

(A)はい。ありがとうございました。

 はい。もう四月も終わりますが、なんか今年はっていうか、いつも言ってるけどね、なんか非常に時の経つのが早いような感じがするけど、まあわたしももう――もうって言うのも変だけど(笑)、もう四十四歳ぐらいですけど、過去を振り返ると、まあわたしは子供のころは、小学校のときとかは特に学校があんまり好きじゃなかったんだね。よく絶望してたときがあったね。つまり、まあ例えば小学校三年生ぐらいのときにね、ほんと学校が嫌だって思って、でも将来を見ると、まあ高校まで行くとしたら、あと何年行かなきゃいけないんだ、あと十年ぐらい、朝から晩まで学校にいて――まあ勉強が好きじゃなかったからね――授業をずーっと受けなきゃいけないのかって子供ながらに絶望してたんだね。で、もちろん子供のころにそういう感じで見ると、なんかすごく十年、二十年って長いような感じがするんだけど、まあ皆さんここにいる人は、さっき言ったようにある程度人生生きてきてるから、振り返るとあっという間ですよね。あっという間に「え、もう四十?」「え、もう三十?」「え、もう五十?」っていう感じで過ぎてってると。まあこれもお釈迦様がもう口を酸っぱくして言ってるわけだけどね。「ほんとに人生は短いよ」と。無常ですよと。で、過ぎ去ったらほんとに、その渦中にいるときにとらわれてたこと、渦中にいるときにほんとに執着してたことっていうのは、もうはっきり言ってどうでもいい(笑)。だって終わるんだから。死をもってすべては終わる。現世のことはね。死をもって残るものっていうのは、われわれの心の成熟、達成と、そしてグルや神や真理との縁。ね。あるいはもちろんその逆もあるよ。逆に心をどれだけけがしたか。あるいはどれだけ悪縁、つまりわれわれを下に引き下げるものとの縁を作ってしまったか。そういったものだけが残ると。
 ということは、これはお釈迦様の基本的な教えであるけども、つまりそこだけに人生の焦点を合わせるべきであって。人生が終わらないなら別にかまわない。あるいは人生がまあもっとスケールが大きくて、五億年くらい続くんだったら、まあもうちょっとマーヤーに浸ってもいいのかもしれないが、たかだか、五、六十年。あるいは長生きしても七、八十年と。これはもう突っ走るしかない。
 まあもちろんこれは、それぞれが修行っていうものに対する価値をどれだけ持ってるかによっても違うけども、本気でこのヨーガあるいは仏教の道を今生で達成したいと思うんだったら、まさにその無常の教えね、「一切は過ぎ去る」と――「今わたしが執着や嫌悪とかでしがらんでるいろんな現象っていうのは、ほんとに今だけのものであって」――まあ未来を見ちゃうとなんか「これがあと五年、十年」とか考えちゃうんだけど、過ぎたところから見ると「あ、もう過ぎた」と。ね。十年、二十年前のことなんてもうほんとに夢のようであると。その無常の教えを徹底的に、まあ日々考えたらいいと思うね。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする