「プルナ・チャンドラ・ゴーシュ」(7)
プルナは35歳の時、重い病にかかりました。医者は、もう助かる見込みはないと言いました。
ある日、プルナが危篤状態に陥った時、スワミ・プレーマーナンダが彼を訪れていました。プルナのベッドの横に座り、プレーマーナンダは神聖なムードに入りました。その直後、プルナは目覚めました。のちに、このことについて、スワミ・プレーマーナンダはこう語りました。
「プルナの子供たちがまだ若かったので、師ラーマクリシュナが、プルナの命を7年延命してくださった。」
プルナは理想的な父親でした。彼は一切の家事を行い、子供たちをよく教育し、娘たちを結婚させて、よい家庭を築かせました。プルナは、弟たちや友人たちに優しく寛大でした。多くの家庭の義務や社会的な責任を果たしながらも、プルナは高い霊的ムードを維持していました。
1907年、プルナはカルカッタのヴィヴェーカーナンダ・ソサエティの秘書に選出されました。ヴィヴェーカーナンダ・ソサエティは、スワミジが亡くなった直後の1902年に設立されており、シャンカー・ゴーシュ・レーンにありました。プルナは定期的にヴィヴェーカーナンダ・ソサエティを訪れ、他のメンバーと共に礼拝堂で瞑想を行なっていました。
彼は若者たちを励まし、友人のようにアドバイスを与えていました。
1911年、フランスの有名なオペラ歌手であり、スワミジの信者でもあるマダム・カルヴェがカルカッタを訪れました。ヴィヴェーカーナンダ・ソサエティのメンバーたちは、プルナに先導されて、マダム・カルヴェをグランドホテルに迎えに行き、そして彼女にシュリー・ラーマクリシュナとスワミ・ヴィヴェーカーナンダの絵をプレゼントしました。また、プルナは彼女をベルル・マトに案内しました。
しかし、プルナのヴィヴェーカーナンダ・ソサエティでの秘書の職は長くは続きませんでした。彼のオフィスがカルカッタからデリーに移転したのです。
プルナのメインオフィスはデリーにありましたが、1年のうち数か月は、仕事でシムラーに滞在していました。その間、プルナは仕事を終えた後、一人で丘に登り、数時間を瞑想に費やしていました。
プルナは自分の霊的な感情を抑え込む優れた能力を持っていたので、周囲の人はそのことにほとんど気が付きませんでした。
しかしある日、シムラーにあるプルナの家で、信者の一人が信仰歌を歌っていました。友人は、プルナの眼から涙が溢れ、長い間赤くなっていたことに気が付きました。
また別の時には、友人は一緒に散歩をしているプルナが上の空だったので、プルナに「体に意識はあるのか」と尋ねました。プルナは自分の喉を触ると、ここから上には意識があるが、ここから下には意識がないと答えました。このことは、プルナがスティタプラジュニャー、つまり「智慧の完成者」だということを示しています。
プルナは穏やかで、寡黙で、目立たない性格ではありましたが、必要があれば、勇猛果敢に遠慮なくものを言いました。かつて、2人のイギリス兵が、シムラーの何人かの地元の人々を虐待したことがありました。プルナはすぐに抗議し、兵士たちに勇敢に挑みました。彼はとても愛国心が強く、インドの自由主義のために戦う戦士たちに、大変理解を示していました。プルナは、スワミジの生涯とメッセージがインドの新しい世代を感化するだろうと強く信じていました。
プルナは、デリーやシムラーに住んでいる時でさえ、いつも兄弟弟子たちと親密に連絡を取り合っていました。かつて、スワミ・トゥリヤーナンダがカシミールを訪れた後に、シムラーのプルナの家にしばらく滞在していたことがあります。カルカッタを訪れた時にはいつでも、プルナはベルル・マトを定期的に訪れました。かつてプルナはカルカッタの自宅にスワミ・ブラフマーナンダと多くの僧や信者たちを招いて祭礼を催しました。
プルナは、何人かの兄弟弟子たちにも資金を援助したり、また礼拝に使う器やサンフランシスコのヴェーダーンタ教会で使う多くの物資を、スワミ・トリグナティターナンダに送りました。
生涯を通じて勉強し続けたプルナは、英語も修得し、スワミ・ヴィヴェーカーナンダが出版を始めた月刊刊行物のブラフマヴァーディンにも、記事を書いて貢献しました。