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「クリシュナ物語」第一回(1)

2009年6月3日

解説「クリシュナ物語」第一回

 はい。今日は『クリシュナ物語』ね。
 これはまあ、なんていうかな、クリシュナの生涯の話なので、解説っていうよりは、皆さんがね、この話を読んで、まあなんらかのインスピレーションをね、得たらいいと思います。
 このクリシュナの物語っていうのは、『マハーバーラタ』とかもそうだけども、具体的な何かの指示が書いてあるっていうよりは、まあわれわれが心を純粋にして読んで、そこから目に見えないサインを受け取るみたいな話だね。だからこれを読んで、われわれの中に何か目覚めるものがあるかもしれません。それはなんていうかな、言葉では表現できないものかもしれない。でもそれが、われわれの心の覚醒のちょっときっかけになる、そういうような話だね。
 全然そういう修行とかあるいは真理っていうものに興味がない人が読んだら、ただのなんか面白おかしい話で終わってしまうんですが、われわれが本当に真理とか神とかを求めてたら、何かこの中に発見できるものがあると思います。
 はい。じゃあ読んでいきましょう。

【本文】

(一)ヴァスデーヴァとデーヴァキーの結婚

 かつて、何百万という魔族の者たちが、傲慢な王として地上に生まれ変わり、それが非常に重荷となったため、大地の女神は苦しみのあまり、ブラフマー神に庇護を求めました。

 大地の女神の訴えを聞いたブラフマー神は、他の神々たちとともに、大地の女神を連れて、至高者ヴィシュヌの住居である乳海に赴き、ヴィシュヌに祈りを捧げました。

 そして至高者ヴィシュヌからメッセージを受け取ったブラフマー神は、他の神々にこう告げました。

「神々よ。至高者が告げられた言葉を、今から伝えるゆえ、心して聞かれるがよい。
 そしてその指示にあなた方はただちに従い、一刻の遅れもあるべきではない。
 大地の女神が味わっている苦しみは、すでに至高者はご存じである。
 あなた方神々は、化身としてヤドゥ族に降誕し、主が大地の重荷をのぞかれるまで、そこにとどまるのだ。
 至高者ご自身が、やがてヴァスデーヴァの家に降誕されるであろう。そして天界の女神たちも、主の喜びに貢献するため、地上に生をもつであろう。
 至高者の部分的顕現であるアナンタ(千の頭を持つ蛇の神)が、主の喜びに献身することを願い、主よりも先に、主の兄として、地上に降誕されるであろう。
 そして全宇宙を魅了する、主ヴィシュヌのヨーガマーヤーも、主のお仕事を手伝うため、主の命令に従い、部分的顕現として地上に降誕されるであろう。」

 このように神々に告げると、ブラフマー神は、喜びに満ちた自分の住居(サティヤローカ)に帰って行きました。

 はい。これはそのクリシュナがね、なぜ地上に生まれるに至ったかの部分だね。何百万っていう魔族の者達が――つまり、なんていうかな、もちろんこのヒンドゥー教にしろ仏教にしろ、もともと輪廻転生を背景に考えてるわけだから――例えばわれわれは今こうして人間に生まれましたと。で、同じような人間の姿をした人がいっぱいいるわけだけど、前生どの世界からやってきたのか、あるいはどういう性質を持つ生命なのかっていうのは、まあ結構みんな違ったりするわけだね。つまり魔族の者っていうのは、一回その魔的な世界に行きました――ではなくて、魔的な魂として何度も生まれ変わり、魔族として悪業を積み重ねてきたような、そういう魔的な魂がたくさん人間界に生まれ変わりましたと。で、みんなもちろん姿形は、普通に人間なわけですよ。でもその正体は魔族っていうか。もちろん魔族じゃない人間はじゃあなんなんだっていったら、それぞれいろいろあるわけだけど。前生犬でしたとか、前生阿修羅でしたとかいろいろあるわけだけど、まあでもここ言っているのは、その魔族の出身の者たちがたくさん人間界に王として生まれ変わりましたと。よって、まあ大地の女神、つまりこの地球をね、守護する女神が、大変それで苦しんだということですね。
 はい。そして、その訴えをブラフマー神と他の神々が至高者ヴィシュヌに祈りを捧げたところ、まあヴィシュヌが答えたわけですね。それが、「あなた方神々は、化身としてヤドゥ族に降誕しなさい」と。つまりインドの、ヤドゥっていう名前の一族に、人間の姿として降誕しなさいと。で、「主が大地の重荷をのぞかれるまで」――つまりここでいうヴィシュヌ神ね、つまり至高者自身が、人間の姿をして降りますよと。つまりその手伝いをしなさいっていうことだね。
 もちろんそれは、そうですね――例えば『バガヴァッド・ギーター』とか『マハーバーラタ』に出てくる、クリシュナに『バガヴァッド・ギーター』を説いてもらったアルジュナとか、あるいはいろいろなかたちでクリシュナと密接な関係にあった人たち、そういう人たちももちろん神の化身なわけだけど。じゃなくて、あまりそういうクリシュナのメインの物語とは関係ない――つまりクリシュナがある村に生まれましたと。で、クリシュナと一回ぐらいしか話したことがない、その村のおじさんとかね――も、神なんだね(笑)。隣の家の、いつも「ああ、クリシュナ、クリシュナ」って言っている、ちょっとこう、いつも寝てばかりいるおじいさんも神の化身(笑)。ね。そこら中にいるのがみんな――自覚があるかどうかは分かんないよ。さっき言った、クリシュナの本当に近くにいる人たちは、もしかすると自覚がある人もいたかもしれない。つまり、「わたしはクリシュナの、至高者の救済の手助けをするために生まれてきたんだ」っていう自覚がある人もいたかもしれない。でも多分村の人のほとんどは自覚はなかった。それは忘れているっていうか。忘れてるんだけど、クリシュナの、まあいわゆるリーラー、遊戯、シナリオどおりに、クリシュナの手助けをすることを人生においてやるわけだね。
 『マハーバーラタ』と並ぶ、もう一つのインドの有名な物語『ラーマーヤナ』ね、この『ラーマーヤナ』も、同じような始まりなんだね。『ラーマーヤナ』も、魔族を倒すために神々が――まあ『ラーマーヤナ』においてはなぜか神々が猿に生まれるんだけど(笑)。神々が「よし、魔族を倒そう」と。で、そのためにその主が――つまりまあこれも同じヴィシュヌ神ですが――聖なる至高者ヴィシュヌが――これは『ラーマーヤナ』っていうのは主人公はラーマですが、ラーマっていうのはクリシュナよりもさらに前の時代の化身です。つまり至高者が、「よし、じゃあラーマという姿をとって地上に降りる」と。で、「それを手助けするために神々よ、猿となれ」と。で、みんな猿にこう生まれ変わったんだね(笑)。で、ラーマが地球に降りて、まあいろいろあって魔族と戦うことになると。で、そのときにその猿たちが、まあ手助けをするわけだね。
 まあこのように一見、なんていうかな、目の前の、いろいろこう理由がある現象があるわけだけど、いつも言うように、そういうのは全部つじつま合わせなんだね。
 例えば『ラーマーヤナ』でいうと、シーターがさらわれて、で、なんとか助けなきゃいけないと。で、ラーマと猿の王が友達になって、それでその猿の王が猿の援軍を貸してくれるっていう、そういうストーリーなんですが、それは全部つじつま合わせなんです。最初から決まってたんです(笑)。最初から、途中にどんなつじつま合わせ的なストーリーが入ろうが入るまいが、ラーマと悪魔が戦って猿が助けるっていうのは決まってるんだね。この神々のシナリオを成就させるために、小さなつじつま合わせがいっぱい起きるんです。
 これはね、ちょっと話が広がるけど、わたしたちの人生においても実はそうなんです。神がわれわれに経験させようとしていることがいろいろあるんだね。「こいつはこういう苦しみを経験しなきゃいけない、ここで目覚めなきゃいけない」――で、その苦しみを与えられるために、いろんなつじつま合わせが起きるんです。こうなってこうなってこうなってこうなったと。「ああ、こうなってなかったら、こうなってなかったのに」っていうのはあり得ないんです(笑)。こうなってなくても、こうなる(笑)。だからもし自分がそれから逃げようとするとね、「ああ、こうなったからこうなった」と。じゃあこれはちょっとストップしてこっち行こうとしても、絶対この逃げたものはやってきます。それは神の意思だから。逆にそれを、逃げよう逃げようとしてると、そうですね、遅れます、自分の成長が。いつかは経験しなきゃいけないんだから。だから、せっかくねえ、こういう短い人生、特にここにいる皆さんは修行とか教えと出合った稀な人生を今歩んでいるわけだから、できるだけ神の意に沿って、まあ例えば神が苦しみを与えてくれているんだったら喜んで経験すればいい。あるいはいろんな課題とか障害を与えてくれているんだったら、喜んで経験して乗り越えればいい。それを逃げよう逃げようとしてると、時間かかるだけなんだね。どうせ最後はやるんだから。だからそれはおまかせした方がいい。
 で、前も言ったけどね、逆にですよ、皆さんがおまかせをどんどんしてたら、どうなると思いますか? つまり、「こうなってこうなってこうきました」と。あ、それはもうおまかせしますと。苦しかろうが楽しかろうがおまかせしますと。「あ、また来ましたね」と。わたしは逃げませんと。それをやっていると、何が起きると思いますか? これ、前も言ったけどね、つじつま合わせがなくなるんです。つまり、「こうなってこうなってこうなって――あ、これ来ましたか」じゃなくて、「あれ? いきなり何これ来てんの?」(笑)。なんでこれがいきなり起きるのか、全く理由が分からない(笑)。例えばちょっと極端な話をすればですよ、極端な話をすれば、いきなり歩いている人がバッてこっち見て「ふざんけんな!」って怒ったりする。「今のなんなんだ?」と(笑)。

(一同笑)

 つまり、普通はいろいろあって怒られて、「くそー! 耐えよう!」ってなるんだけど、全然関係ない人に理由なく怒られたりする(笑)。これはつじつま合わせがなくなってきた、つまり神と自分の――つまり変な言い方をすれば、神がわたしを信頼してくれるようになったと(笑)。こいつはつじつま合わせをしなくても、つまり理由なんかなくても全部受け入れるって分かったら、手っ取り早くなるんです。「こうこうこうでこう」だったのが、「ちょっとこれ、飛ばすよ」と(笑)。とにかくこれ――「じゃあはい、これね、これね、これね」と。こうなったらもうしめたもんだね。うん。そうなったらもうそれは喜べばいい。
 まあそうなってなくても、もう一回言うけども、自分がね、正しくっていうかな、正しく生きようとしていて、で、その過程でやってくるいろんな苦しみとか、いろんな乗り越えなきゃいけない課題とか、そういうのはもう喜んで受け入れると。逃げないと。
 あるいは逆のパターンもあるよ。例えば、いろんな喜びを経験させられる。それはそれでオッケーと。でもそれを今度は例えば奪われたりするかもしれない。それはそれでまたオッケーと。
 ラーマクリシュナの弟子のブラフマーナンダっていう人の話で面白いのが――まあそのころのラーマクリシュナの弟子たちっていうのは放浪の旅をしてて、いわゆる托鉢修行で生きるんだね。もう一切、無一文。一切、つまりもう完全な無一文なんだね。一円もお金を持たない。で、ただ身をまとう衣ぐらいしか持たない。一円も持ってないから、じゃあ食事どうすんのかっていうと、まあ毎日家々に乞いに行くわけだね。ちょっと今日の食事を分けてもらえませんかと。まあ完全な托鉢生活。でもある日ブラフマーナンダは、「一切乞うこともしない」と。「すべてただ神にまかせる」って誓いを立てるんだね。まあ同じような話がヨーガーナンダの『あるヨギの自叙伝』とかにもあるけども。まあヨーガーナンダの場合は一日だけの話なんだけど、ブラフマーナンダは何週間とかそれをやるんだね。そうするとやっぱり不思議なことに、何もしてないのにいきなり通りがかった信仰深い人が勝手に食事を置いてくれていったりする。で、それで「あ、神様ありがとうございます」と。もちろん何も置いてもらえない日もあるんです。当たり前だけどね。誰も来ないと。誰も食事を置いていかないと。それはそれでオッケーなんだね。「あ、今日誰も来なかった――それは神の愛だ」と。今日も来なかったと。「それはそれで神の愛だ」と。もう五日間誰も来てないと。「それは神の愛だ」と。ね。あ、喉渇いたなと。そしたら雨が降ってきたと。「あ、神の愛だ」と。こういう感じ(笑)。
 で、面白いのがさ、あるとき、まあ寒い時期だったので、ある信仰深い人が、毛布をわざわざ持ってきてくれたっていうんだね。で、ブラフマーナンダが瞑想してたら、毛布を持ってきてポンと置いてくれたと。で、ブラフマーナンダはそのまま、ただじっと瞑想し続けたら、ちょっとあとにまた別の男がやってきて、その毛布を持って行ったっていうんだね(笑)。つまりそれは、持ってきてくれたのも神で、持って行ったのも神なんだね。で、その神のリーラーっていうかな、神のお遊びを見て、ブラフマーナンダは微笑んだっていう話があって(笑)。
 それくらい大らかな、まかせる気持ちがあったらいいね。うん。普通だったら、途中までは、神の愛だって思えるかもしれない。例えば「あ、神が持ってきてくれた――あ、神の愛だ」と。で、それを次の人が持って行ったとしたら、「神が持ってきてくれたものをなんで持って行くんだ!」っていう気持ちになるかもしれない。でもそうじゃないんだね。持って行ったのも神なんです(笑)。それくらいのなんていうか、おまかせした気持ちができたら素晴らしいね。

 はい。ちょっと話が広がっちゃいましたが、とにかくこのような経緯をもって、まずクリシュナと、クリシュナに仕える神々の生誕がね、計画されたっていうことだね。

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