yoga school kailas

「おまかせ」

◎おまかせ

【本文】
 しかしながら、わたしから心を離さず、ひたすらわたしを礼拝し、すべてのものの中にわたしの姿を瞑想する人々に対しては、
 わたしは彼らに必要なものをすべて与え、彼らがすでに持っているものは一切失わぬようにと保護する。

 はい。単に、私は徳を積んで、天に生まれ変わって、喜びを味わいたいんだ――こういう修行のやり方はなくて、絶対の真理――つまり、この世の本質は、ただ唯一のバガヴァーン――これはね、宗派によって名前が変わっても、もちろん構わない。例えばクリシュナでもいい。シヴァでもいい。あるいは仏教でいうと如来でもいい。あるいは密教だとね、いろんな如来がいて、その如来の中の如来を生み出す最高の大元の如来ってあるんだね。それはアーディナータとか言うんだけど。それは例えばヴァジラダラとか、クンツサンポとか、いろいろ名前がついてるんだけど。
 例えばね、この辺が面白いんだけど、チベット仏教では、カギュ派ではその最高の存在を「ヴァジュラダラ」という。ゲルク派も「ヴァジュラダラ」っていっている。ニンマ派では「クンツサンポ」といっている。あれ? 何で名前違うの?――でも、このそれぞれの派は認め合ってるんだね。分かってるんです。それはただの名前だと。ね。ただあらわすものを何か名前をつけなきゃいけないから、違う名前と違う姿形で描いているんだけど、言わんとしていることは同じなんだね。
 この唯一なる完全なる存在がありますと。これは名前はどうでもいいんだけど。それに対して常に心を離さず――だからみなさんも、具体的には何でもいいんだよ。ヨーガの神であるシヴァでもいいし、あるいはここで書いてあるクリシュナでもいいし。あるいはそういう名前にこだわらないでもいい。とにかく、この宇宙の本質である唯一の実体があると。それに対して常に心を離さず、ひたすら礼拝し、すべてのものの中にその姿を観想すると。
 つまり、あの辺にクリシュナ様がいらっしゃるんですよ――そういう世界ではなくて、この世界全てがこのクリシュナ――でもいいし、仏陀でもいいんだけど――そのあらわれなんだと。
 だから修行者っていうのはね、二重構造の眼を持たなきゃいけないんだね。日常生活は普通に送っていいんですよ。普通に送るんだけども、その中で同時に――日常でもそういう表現をしろっていうんじゃないんだよ。そうしたら生きられないからね(笑)。例えば、仕事をしながらね、「部長」って言わないで、「あの、クリシュナ様」と(笑)。お得意様に対しても「クリシュナ様!」と(笑)。これやってたら生きられない(笑)。だから表面上は普通に、「ああ、部長」と。「お得意様ですね」と。「ああ、私の息子、お前こうしなさい」――ってやってるんだけど、同時に――例えば自分の息子に、「お前こうしなきゃ駄目じゃないか!」って怒ってるんだけども、同時に心の中では、「あなたは同時に、偉大なるクリシュナ様です」と。このような二重の意識を持たなきゃいけない。
 それはさっき言った、相対の真理と絶対の真理。相対の真理の中においては、この世の法則に則って自分のなすべきことをなす。例えば父親だったら、子供が悪いことをしていたら叱らなきゃいけない。でもここでクリシュナっていう意識ばかりが強いと、叱れないじゃないですか(笑)。「クリシュナ様、あなたのなすことはすべてその通りでいいです」――こんなことやってたら、息子が不良に育つかもしれない(笑)。ね。だから自分のやるべきことはやらなきゃいけないんだけども、同時に、「でも、すべてはクリシュナなんだよね」っていう意識は持たなきゃいけない。あらゆることについてそうだけどね。
 そのような生き方をするものに対しては、「私は彼らに必要なものをすべて与え、彼らがすでに持っているものは一切失わぬようにと保護する」と。
 これはどういうことかっていうと、結局、すべてをこのような意識を持って、神に任せ――最近カイラスでは「おまかせヨーガ」っていう言葉が流行ってるんだけど(笑)。「おまかせヨーガ」って何かっていうと、バクティ・ヨーガね。バクティってよく信じる愛って書いて「信愛」って訳されるんだけど、「ラーマクリシュナの福音」で、たまに「バクティ(おまかせ)」とか書いてあることがあって(笑)。
 確かに意訳をすると、「おまかせ」みたいなところがあるんだね。バクティ・ヨーガってね。
 つまりすべては神の、完全なる神の手の元にありますと。だから私がああだこうだ考えて、じたばたしでもしょうがないんだと。すべては神の愛なんだから――いつも言うように、人間の利己的知性でことの善悪をとらえてはいけない。人間の利己的知性で、ことの良し悪しをとらえてはいけない。例えば「こうしよう!」と思っていたのに、全然違う結果が現れたときに、「え? 私はこうしようと思ってたのに、不幸だー!」じゃなくて、「いや、ここでこういう状況を与えてくれたのは、おそらく神の偉大な愛だ」と。「いやあ、ありがとうございます」と。「何か今の私の知性では全く分からないが、神の愛だ」と。ね(笑)。こういう意味でのおまかせをするんだね。
 このようなことをしている者にとっては、偉大な神というのは、必要なものはすべて与え、持っているものは失わぬようにと保護すると。その確信を持てるかだね。
 自分の利己的な知性というか、エゴ的な観念にとらわれが強すぎると、それが持てないんです。つまり、こっち側が強いから、現象としては実は自分に幸せになるような条件が訪れてても、自分の考えが強すぎると、「え? なんでこうなるの?」と。「ちょっと待って!」と、現象に対抗しようとする。でも現象は現象で動いていくから、すごくそこで恐怖を持ったり悲嘆したりっていうのが始まるんだね。ここで人生がすごく苦痛と恐怖と、たまに自分の思い通りになって「ああ、よかった」。「ああ、でもそうじゃないんだけどな」と。ね。実際は神の愛によって動いているだけなんだけども、その中でじたばたじたばた、「ああ、こうかな、こうかな」ってやってる。
 そうじゃなくて、完全に任せなさいと。そうすれば絶対に君の最も幸せな方向にね、導くんだよと。神はと。そういうような道だね、このバクティ・ヨーガっていうのはね。
 みなさんがこのバクティ・ヨーガの道を歩むかどうかは自由です。でも歩むとしたら、こういうような完全なる全肯定というか、全信頼を置かなきゃいけないんだね。

share

  • Twitterにシェアする
  • Facebookにシェアする
  • Lineにシェアする