「いつ私は」
【本文】
ある者は、私を侮るであろう。なぜ私はほめられて喜ぶべきか。
ある者は、私を称える。なぜ私は、非難されて悲観すべきか。
【解説】
私達の心は弱いので、誰かに非難されたとき、くよくよと思い悩んでしまいます。
また、誰かにほめられたとき、有頂天になって、慢心に陥ってしまいがちです。
しかしよく考えたら、世界中の全ての人から非難される人というのはいません。
また、世界中の全ての人から称賛される人というのもいません。
だからそれをよく考えるべきですね。もともと、誰だって、ある人たちからは批判され、ある人たちからは認められるのです。そしてその批判や称賛の言葉は、概して、無責任であることが多いのです。
だからカルマによって聞くこととなった、一時的な、称賛の言葉や非難の言葉に、心を動かされないことですね。そういう外部の言葉に一喜一憂していては、瞑想ができません。人の言葉に左右されない、確固たる真理を発見すべく、瞑想すべきです。
【本文】
衆生はそれぞれ違った傾向を持ち、勝者(仏陀)といえどもこれを満足せしめがたい。まして私のごとき無智の者においておや。だから、世間の人々を考慮する必要がどこにあるか。
彼らは(たとえば)人に所得がなければこれを非難し、所得があればこれを軽蔑する。(かように)本来、苦しみとともに住める彼らから、どうして喜びが生まれるか。
「愚者は誰人の友でもない」と如来は説かれた。それは、自己の利益を離れては、彼らに愛が生じないからである。
自己の利益に基づく愛は、利己の愛に他ならない。あたかも富の喪失によって生じた悲哀が、自己の楽しみの消滅に基づくごとくである。
樹木は他を軽蔑しない。また好意を得るに努力を有するものでもない。ともに住むに楽しい彼らたちと、いつ私は住居をともにしうるか。
さびしい祠、あるいは木の根、あるいは洞穴に止住して、いつ私は心に何事にもこだわることなく、後ろを顧みずに、立ち去りえようか。
自由な広々とした自然の土地に、いつ私は、自在に行動し、家を離れて時をすごしえようか。
ただ土製の鉢のみを所有物とし、盗人も奪い去らない衣をつけ、いつ私は恐れなく、身を守らずに時を過ごしえようか。
【解説】
ここは出世間的な表現が続きますね。
この辺もあえて詳しい解説はしませんので、思索してみてください。
実際に今の私達がこのような世間を捨てた状態に完全に身を置くのは難しいことかもしれませんが、瞑想を進める上において、こういう出世間的な意識を持つのは大切なことです。もちろん、瞑想も進むと、世間と積極的に交わりながらも悟りを維持する境地に進んでいくわけですが、まず最初の段階では、少なくとも心において現世を捨断し、瞑想の段階を進めていかなければならないのです。
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