「いかに心を変革するか」
心の訓練⑦
◎いかに心を変革するか
はい、今日は「心の訓練」の最後のパートですね。七つの要点の七番目、「心の訓練に関する24の教誨」。
心の訓練というのは、いつも言うように、修行の最も大事なことであるといってもいい。ただ、非常にとらえどころがないといえばとらえどころがない。つまり修行っていうのは、どんな高尚な教えがあっても――つまりすごい哲学的な偉大なる教えがあっても、あるいは心を打つような素晴らしい慈愛の教えがあっても、それを実践しなければ全く意味がない。あるいは、それによって実際にわれわれの心が変革されなければ、全く意味がない。
これは分かるよね。つまりいかに多くの本を読み、多くの教えを記憶し――例えば論議をしてね、「わたしは仏教やヨーガのあらゆることを知っています」と。スパスパッといろんな人を打ち負かすことができたとしても、その人の心がその教えによって全く変わっていないんだとしたら、何の意味もない。逆に一つ二つしか教えを知らないんだが、それによってその人の心が全く変わってしまってるとしたら、その人こそ教えに巡り合ったメリットを得てる人だといえるわけだね。
よって心の訓練っていうのは、何か取り出して、「はい、これが心の訓練です」っていうものというよりは、われわれが今まで学んできた、あるいはこれから学ぶさまざまな教えを、「さあ、いかに実際に実践し、そしてそれによって実際に自分の心を変革していくか」っていう教えですね。
だからここに書かれてるのも、われわれを心の訓練に向かわせるための、一つのセオリーにすぎない。実際はいろんな形でわれわれは工夫して、日々自分の心を教えによって変革していかなきゃいけないわけですね。
◎熱意の重要性
はい。そして最後の「24の教誨」っていうパートに入っていきます。
もともとね、心の訓練の教えっていうのは、そういう意味ではラーマクリシュナがよく――ラーマクリシュナに対して信者が、「どのようにすれば神を悟れますか?」って聞いたときに、「まず第一に必要なのは熱意だ」と言ってる。つまり神を求めて、自分が神を実現していないことが本当に悲しくて、もう涙が出ると。もういてもたってもいられない――これぐらいの熱意があれば、簡単に神は実現できると。
でもそれは確かにそうだと思う。逆に言うと、熱意があれば心の訓練の教えもいりません。なぜならばその人は、自然に心の訓練をするから(笑)。ね。つまり、本当に本当にわれわれの心が百パーセント、実際にヨーガや仏教の教えによって自分を変えたいんだと。このけがれた自分の心を変革し、悟りを得たいと。あるいは菩薩になりたいと。あるいはこの真理を自ら体現したいということを、心から熱意を持って思ってたら、絶対やるはずなんです、心の訓練を。つまり、日々いかに自分を変えるか。「さあ、自分はまだまだ全然こんなんじゃ駄目だ」と、一瞬たりとも自分を見逃さずに、自分を変えていくはずなんだね。
われわれはカルマが悪いから、どうでもいいことには超熱心な訓練をするんだね。どうでもいいことっていうのは、例えば趣味とか、あるいは遊びとか。例えばですよ、何らかのコンピューターゲームとかにはまったとして、「それをなんとかクリアしたい!」と思ったら、一日中そのことを考える(笑)。ね。で、いかにそれをクリアするか――それでご飯も忘れるぐらいと。で、いろんなのを調べたり、あるいはいろんなテクニックを磨いたりして、自分の二十四時間をそれに費やすことができるかもしれない。あるいは例えばスポーツであるとか、あるいは趣味であるとか、いろんなことに関してわれわれは寝食忘れて、それで頭がいっぱいになるってことはあるよね。でも修行でそうなる人ってあまりいない(笑)。ね。
修行に巡り合って、教えを理解できて、ある程度「わたしはこのヨーガや仏教の修行を頑張りたい!」って思える人っていうのはとてもカルマがいい人なわけだけど、それでも二十四時間、「なんでわたしはまだこんなに駄目なんだ!」っていうことを、一瞬一瞬考えられる人っていうのはなかなかいない。
だから逆にそうならなきゃいけない。つまり、それだけの熱意を持たなきゃいけないんだね。
何度も言ってるけど、よく中途半端に仏教を学んでる人で、「仏教っていうのは欲を捨てなきゃいけない」と。「悟りへの欲も持っちゃいけない」なんて言う人がいますが、それはとんでもない話であって、超欲求を持たなきゃいけないんだね。なぜかというと、われわれは全くどうでもいいような、われわれの心を全く変革しない、もしくは逆に引きずり落とすようなものにはいっぱい欲求を持ってる。それなのにね、それをほっといて、悟りすまして、「仏教は欲求を持ってはいけないんです」とか言って、「わたしはだから悟りを求めてないんです」――なんて言ってても、ただ心はどんどん現世的なものに引きずり込まれてくだけだと。
だからそうじゃなくて、もし欲求が足りないと思ったら、常に心の中にその欲求の炎を燃やすと。それも含めて心の訓練になっちゃうわけだけど。例えばいろんな聖者の伝記を読むとか、あるいは心を鼓舞するような教えを日々学ぶとか、あるいはそういう言葉を日々唱えるとかね。
わたしはいつも言うけど、『入菩提行論』がとても好きなので、『入菩提行論』を何回も読んでる。何回も読んでるからね、フレーズがやっぱり頭を回るようになるわけだね。それがポイントポイントでパッと出てきて、自分を鼓舞してくれる。
例えば朝とかね――大体わたし早起きなわけだけど、まあ寝過してしまうこともあるわけだけど、大体五時とか四時とかに目が覚める。でも疲れてるときとかってさ、目が覚めてるけど寝てたくなるときもある(笑)。一瞬ね。「ああ、目が覚めた。」――すごい疲れてるときね、そんなに寝てないような気がするんだけど、パッと起きたらもう朝だと。「ああ、でももうちょっと寝てようかな」っていうときに、例えば『入菩提行論』の一節で、「眠りから覚めたら遅滞なく――遅滞なくっていうのは、少しも遅らせることなく――速やかに立て」っていう一節があるわけだけど(笑)、それがパッと出てきて、「あ! そうだ!」と思って立つと。例えばね。
これはわたしが『入菩提行論』をみんなにも薦めてるけども、「本当に入菩提行論は素晴らしい」と思って、何度も何度もそういう想いで読んでた。「入菩提行論は素晴らしいんだ」と。そして例えばそこを読むときは、「われわれには時間はないんだ」と。「そんなダラダラ寝てる時間はない」と。「だから朝起きたら本当にもう速やかにパッと目覚めなきゃいけない」っていうことを、わたしが何度も修習したものが残ってるわけだね。それがパッと出てきて、「あ! そうだ!」と思って、例えば起きると。
まあこれは例えばの話だけどね。いろんな場面で、そういうのがパッと出てくる。これは、わたしがいわゆる工夫をしてきたからです。工夫っていうのは――入菩提行論っていうのは、わたしにとってとても利益になると。なぜかというと、今みたいなさまざまなポイントポイントで、自分の心を具体的に変えるようなフレーズがいっぱいあるんだね。だからそれを日々学ぶことで、わたしにとって利益になるんだと思って、例えば一日必ず一回は何かの章を読むとか、そういうことをやってきた。それが活きてきてる。
絶対これじゃなきゃいけないっていうのはないんだけど、自分で工夫して、「さあ、自分の心をいかに変えるか」っていうことを考えなきゃいけない。
さっきも言ったけど、例えばわれわれがゲームをクリアしたいと思ったら、もういっぱい調べるでしょう。いろんなことをしてスキルをアップするでしょう。あるいは例えば、あるスポーツの大会で優勝したいと本気で思ってたら、そのためのさまざまな努力をするはずなんだね。で、同じように、われわれは「心を変えたい!」と思わなきゃいけないんです。「今のこんなわたしでいいはずがない」と。「わたしはもっともっと心を磨いて純粋になりたい」と。あるいは「慈悲を身につけたい」と。それを本当に心からの熱意で思わなきゃいけない。それができたら、この教えはいらない。
でもなかなかわれわれはカルマが悪いので、すぐ忘れてしまう。いったいわたしは何のために修行してたのか全く忘れてしまう。何のために生きてるのか、何の価値がこの人生にあるのかすぐ忘れてしまう。よって、こういう教えを日々学んで、自分の心をしっかりと本質にね、引き戻さなきゃいけないわけですね。
はい。じゃあ、その「24の教誨」ね。じゃあ読んでいきましょうかね。