◎行為の中に非行為を見る
だからこだわりがあるんだね、われわれっていうのは、いつも言うように。こんだけやったんだから、こうなってしまうのは私は許せないとかね。
もうそんなことは関係ないんです。その行為自体が神への供養なんだと。今やるべきことに全力をもってなすこと自体が、神への供養であって、これは前の章にも書いてあったけども、
「君には与えられた使命を遂行する権利はあるが、その結果についてとやかく言う権利はない」と(笑)。そういうことなんだね。
神から与えられた――つまりこれは前回も言ったけども、この神から与えられたっていうのは、実は神が、私のカルマを浄化するために、最高の道を与えてくれてるんです。それは現実的な考えでいうと、無駄なこともあるかもしれない。
私はよく思ったよ。前、例えば仕事とかもそうだけど、例えばヨーガのこういう教室とかやっててもね、たまに非常に無駄なことがあるんですよ。無駄なことっていうのは、そうだな……何かどっかで講習会をやるっていう話になって、そのためにいろいろ準備して、すごく苦労して時間をかけて――このカイラスの話じゃないけどね。昔の話――行ったら、当日来る人たちがみんなキャンセルになっちゃって、誰も来なかったということがあった。この時に私はどう考えたかっていうと、あの時間はどうなったんだと。あの時間を返してくれと。本当に私は馬鹿な無駄なことをやった――とは思わなかったんです。「やった!」と――やったっていうのは、来なかったのがやった、じゃなくて、つまり私はこうして一生懸命準備して、しかし誰も来ないっていう、このカルマを経験しきったと。さあ次だと(笑)。次は成功かな、とか(笑)、こういう発想だったんだね。
そこで大成功しようが、大失敗しようが、関係ないんです。それに対する期待とか不安とか、そんなのは関係ない。ただ自分に与えられたなすべきことに全力を尽くす。これが「行為の中に、非行為を見る」っていうことなんだね。
これは次からどんどん明かされていく内容で分かると思うけども、つまりわれわれは、行為というものにとらわれることによって、カルマに支配されるんです。しかしその叡智の炎で焼き尽くすって書いてあるけども、われわれがその行為の真実、あるいは神の意思の真実っていうものをしっかり理解して、この世で行為を純粋にしきったならば――ちょっとこれは後の方でも、ずっとそれが説かれていますが――ちょっとこういうことを言うと、みなさん勘違いしないで欲しいけども、つまりわれわれが本当の意味で行為したならば、カルマの法則に支配されないんです。
カルマの法則ってつまり、何かをやったら返って来ますよと。ね。人を殴ったら、自分も怪我をするかもしれない。このカルマの法則にわれわれは支配されているんだが、それはわれわれが本当の意味で行為してないからなんだと。われわれが本当に行為というものを、神への捧げものとして、純粋に行為しきったならば、カルマさえもわれわれにはなくなるんだよ――っていう、ものすごいことを説いているんだね。これはまさにゾクチェンです(笑)。密教的な教えと非常に近い。
そして「行為の結果にまったく執着せず、常に楽しくすべてに満足している人は、あらゆる行為をしながらも、実は非行為の状態でいるのと同じなのである」。これは、さっきも言ったけど、壁にでも貼って毎日読んだらいいね。行為の結果にまったく執着せず、常に楽しくすべてに満足せよと。ね。
つまり、いろんなことが人生においてあると。で、例えば自分の目指すべき道があったとしても、その途上でいろんなことが、大きなことから小さなことまであるわけですね。それに対してすべて満足し、なすべきことをね――まあ、例えば小さなことでいったらさ、会社で何か仕事をやってたら、本当は自分の仕事でない仕事を押し付けられることがあるかもしれない。そこで相手に対する不満とか、あるいは自分のカルマの悪さを嘆くんじゃなくて、あ、神がまたこういうことを与えてくれたと。いや素晴らしいと。それにも満足すると。
だからもう、最初の原則なんだね。常に楽しく、すべてに満足せよと(笑)。こうだから私は満足で、こうだから不満っていうんじゃないんです。常に満足せよと。あらゆる行為を満足して行なえと。その結果にも執着するなと。
例えば、一生懸命やったのに、みんなから非難されたと。それはそれでいいんです。非難されようがなんだろうが。でも、私はこんなにやったのにって思った瞬間に、行為に束縛されます。その瞬間からその人は、カルマの輪に縛り付けられる。
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