◎心をコントロールする
◎心をコントロールする
【本文】
『頼りがたく揺らぎやすい性質を持っている心は、いかなることにも動揺し、さまよってしまう。
ゆえに、修行者はこれをしっかりとつなぎとめ、真我の統御の下におかなければならぬ。』
はい。これも同じですね。さっきから言ってることですね。ちょっと一つ言っておくと、例えばみなさんね、サマーディに入ったとするよ。あるいは真我とかを悟ったとするよ。でもそれはその後、みなさんが苦しみが無くなるということではない。そんときは無くなるけどね。ここら辺が問題なんだね。つまり、例えばCさんがサマーディに入って真我を見たと。「ああ、真我だ」と。五分間瞑想に入っていたとして、一切の苦しみから解放されましたと。で、パッとこう瞑想から出てきてね、日々の生活が始まると。そうすると五分間は何もない真我だったけども、日々の生活に放り込まれたときにまたいろんな、さっき言った刺激がやってきます。で、刺激がやってくること自体は別にいいんだよ。やってきたときに心が訓練されてないから、さっきたまたま真我にいったけど、またやってきたら心がやられちゃうんです(笑)。ウワーって感じでね(笑)。
だから「サマーディに入ったことがある」とか「真我を見たことがある」っていうのと、「一生心が動かない」っていうのは別なんです。もちろんまったくサマーディの経験がないよりはあったほうがいいわけだけど、それは一回かもしれない。二回かもしれない。そういう人もいっぱいいると思うよ。修行しててね、「サマーディの経験をしました」と。でも「人生において一回だけです」――そういう話もある。でもそれは段階としてはいいんだけども、理想的にはね、二十四時間サマーディに入れる状態を最終的には目指すわけだけども、そこまでいかなくても、どんな聖者でも、二十四時間サマーディみたいな完全な境地に達していない間は、自分の心をコントロールする術を身に付けなきゃいけないんだね。
つまり良い状態っていうのが自分にあって、で、外的な情報があって、で、外的な情報によって乱される危険性っていうのは常にあるわけですね。
特に現代みたいな情報過多の時代っていうのはそうだね。ちょっと街を歩けば情報に当たると。あるいはちょっといろんな活動をしてればいろんな情報が入ってくると。で、その観念もいろんな観念、あるいはいろんな価値基準がいっぱいあって――それは良いことでもあるし悪いことでもあるんだけど、それに心がどんどん翻弄されていく。だから修行っていうのは、もう一回言うけども、いかに本質に到達するかっていうのは一つだけど、もう一つはいかに日々生じるいろんな刺激に対して心を守っていくか。念正智の世界だね。これも非常に大事なわけですね。
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