◎すべては神への供養
【本文】
『プラジャーパティは、はじめに人類を創造し、彼らに「至高者への供養」を教え、こう言われた。
【これをよく行なう者に栄あれ! その者の願望はすべて満たされるであろう】と。
行為の結果を供養して神々を喜ばせ、君も神々から喜ばせていただきなさい。
このように相互に喜ばせあうことによって、君は最高のものを手に入れることになる。
供養に満足した神々は、供養者にさまざまなものをお授けになる。
そうしたものを頂戴しながら神々に何の返礼もせぬ者は、盗人と同じである。
神々に供養した食物のおさがりをいただく人は、すべての罪から免れる。
味覚の楽しみのために食物を食べる人は、罪そのものを食べることとなる。 』
はい、もうちょっと深い部分に入ってきましたね。
われわれのこの世の行為っていうのは、全て至高者、つまりそれは神といってもいいし、如来といってもいいし――まあもちろんこの中ではクリシュナのことだけどね。それはもう、それぞれのものでいいと思います。例えば、クリシュナが好きな人はクリシュナでいい。あるいは名前とかもあんまり好きじゃない人はその絶対的な至高者って考えればいい。あるいは如来がすきな人は如来。あるいは密教の場合は、例えば、それを自分の師匠と同一とみてもいいし。あるいは自分のイダムでもいいし。とにかくこの世の絶対的な至高者、あるいは神々への、供物。自分の為すことは全てそうなんだって考える。
で、一番わかりやすい例が、ここにも出てる「食事」なんだね。われわれは当然この肉体を維持する為に食事をしなきゃいけない。ね。これは現実というか、物理的なものとしてあるわけだね。物理的に肉体を維持する為に、栄養素を口から放り込まなきゃいけないっていう一つの現象があります。じゃ、これをどうとらえるか。その理想は、このおいしい食物を神々に供養いたしますと。そしてそのお下がりを私はいただきましょうと。
あるいは別の考えとしては、神々に供養いたしますと。で、自分の体は祭壇であると。自分が神の代わりに、歯をつかってかじって、飲み込むことによって、神々に供養するんだって考えでもいい。
つまり、「食事イコール何だ?」って言ったら、供養の瞑想だと考える。供養の瞑想として、食事というカルマがあるんだと。つまり私がカルマによって食事をしなければ生きられないっていうカルマがあるのは、供養の瞑想するためなんだって考える。
それによって供養として、「はい、供養。はい、供養。はい、供養。供養。」これは、素晴らしい悟りをこの人にもたらすだろうと。
じゃなくて、神関係ないと(笑)。「さあ、うまいもの食うぞ」と(笑)。「ああうまい、うまい」と。「私は味覚こそが楽しみなんだ」と。「さあ今日はどんな美味しいもの食うかな」ってやってる人は、悪そのものを食うことになると。
これは食べ物だけじゃないんだけど、こういう感じで、執着によって何かを経験し、何かを避け、――つまり執着と嫌悪によってこの世の経験をする人は、どんどんカルマの渦にまきこまれて、がんじがらめになる。
じゃなくて、この世で生きなければいけない、いろんな行動しなければならないこと、一つ一つを神の供養とするんです。だからこれは智慧が必要だね。いろいろ応用しなきゃいけない。
例えば、今の日本では裸では生きられない。裸で生きてたら捕まってしまう。あるいは会社に行くときはちゃんときれいな服を着なきゃいけない。しかし、「私はこんなきれいな服を着れていいなあ。わあ、きれいだ」って考えちゃ駄目なわけです。このきれいな服こそ神への供養なんです。そのお下がりを私は着ているにすぎない。
全てそうだね。もう本当に小さな自分の活動も含めて――例えば、まあ極端な話をすれば、歩くことさえ神への供養だと。あるいは自分が――それはいろんな智慧が必要だけどね、しゃべってることさえ神への供養だと。でもそれは、しゃべってることさえ神への供養だって考えるとしたら、悪いことは言えなくなるね。例えば悪口言って、それを神への供養だとか言ってたら、それは供養にならない。しゃべることが神への供養だと考えるとしたら、人には真実とか真理とか、あるいは人を安らがせる言葉しか言えなくなります。
◎心は神の応接間
あのね、こういうおもしろい考え方がある。心は「神の応接間」であると。心は神の応接間ですと。よって、常に心に神をお招きしなさいと。
しかし、ここで考えなきゃいけないことがありますと。心は神の応接間だから、いつもちゃんときれいにしてもてなさないといけませんと。そういう考えなんだね。
心に神をお呼びするんだから、もう本当に小さな憎しみとか、嫉妬心とか、執着とか、そんなものもあったら失礼だと。だから徹底的に心をきれいにしなさいと。
で、これとまったく同じ発想で、日々生きるんだね。自分の活動は全て神への供養なんだと。例えばさっき言ったように、何らかの形で自分が何かをしなきゃいけない――まあ、例えばそれはこういう勉強会とかだけじゃなくて、日々の生活でもそうだよ。例えば、誰かにお茶を入れてくれと言われた場合ね、例えば、会社の上司にお茶を入れてくれと言われた場合でも、「ああ、これは神が上司の姿をとって、私に徳を積ませようとしてくれてる」と。だからそこで、一時的にですよ、一時的に、その上司を神と見て、お茶を捧げるわけです。
そこで、「え! 何言ってんの、あの人」(笑)、最近流行のパワーハラスメントだとか考えて、いろいろ理屈で自分の行動を制限すると、全然駄目なんです。
だからカルマ・ヨーガの難しさっていうか、ポイントはいかに自分の人生を、受け入れるかだね。
◎三つのヨーガ
ただしかし、もう一つ問題なのは、受け入れちゃいけないこともあるんです。そこは、その道を避けることこそがカルマ・ヨーガって部分もあるんです。だからそれはものすごく難しいんだね。
だから前にも書いたけども、私はやっぱり本質的に現代において正しくヨーガを行ずるには、大きく分けるとやっぱり三つのヨーガが必要だと思うね。
一つは、しっかりと教えを学び、教えに基づいて考え、そしてそれを実践するっていうヨーガです。これは非常に仏教的なヨーガだね。正しい教えを学び、それについてしっかりと考えて、それを実生活で実践してみると。
で、二番目のヨーガは放棄のヨーガ。つまり、いろんな物を捨てて、しっかり瞑想して、サマーディに至ろうとするヨーガ。
で、三つ目のヨーガが、今日の話と関係ある、カルマ・ヨーガであり、そしてバクティ・ヨーガであり、そして大乗の慈悲の実践。つまり、全てを神の愛と考え、全ての人生を受け入れ、その中で、慈悲に基づいて、あるいは神の愛に基づいて行動しきることによって悟りを得る。
この三つっていうのは、三つとも揃わないと、私はうまくいかないと思います。例えばじゃあ今回はカルマ・ヨーガが主題だから、カルマ・ヨーガを実際に実践するには、土台として、正しい教えを学び、考え、実践するっていうのがないと失敗するんだね。
つまり本来、エゴの方がまず強いから、エゴによって物を見てしまうから、神の意思を間違ってしまう。
例えば例を挙げると「じゃあ今日カイラスの勉強会に行こうか」と。行こうと思ったらサンダルが切れたと。「神の意思だ」と思って、行かないと(笑)。これは駄目なわけですよ(笑)。じゃなくて、そこは、
「いや、これは私の悪いカルマによってこのような現象が起きたが、このような現象を打ち破って教えを聞きにいくことこそが、神の愛だ」と。つまりそのような、悪業を断ち切るような、場面を与えてくれたというふうに考えたほうがいい。
そう考え至るには、基本に教えを学んで、それを理解してっていう土台がないと駄目なんだね。あともちろん放棄もそうですね。いろんなものを放棄して瞑想に没入すると。こういう土台がないと、さっき言った、正しい道を選ぼうとするときにね、いろんな物に対する執着とか現世的な考えた方が邪魔をして、間違えてしまう。
だから観念的なんだけども、概念的な教えをしっかり学んで、それに基づいて考え、実践するっていうヨーガと、それから、いろんな物を実際に捨てていく。あるいはこの世から心を離し、深い瞑想に入ろうとするヨーガ。この二つも単品では駄目なんだけど、この二つが交互に影響を及ぼし合い、最終的なこのカルマ・ヨーガ、あるいはバクティ・ヨーガというものを完成させると思うね。
だから現代ではそういういろんな方向から自分というものを固めていかないと、非常に難しい。
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