解説「菩薩の生き方」第十一回(3)
じゃあもう一回、この本文のところを見てみましょうね。本文のこの、まあシャーンティデーヴァが書いてるイメージをちょっとたどって、供養の気持ちにちょっとなってみましょうかね。
はい、まず、つまりおそらくシャーンティデーヴァが、心からの仏陀への愛、仏陀への供養の気持ちの高まりによって、こういった世界に入って――だからこの辺はさ――『入菩提行論』を日々読んでる人もいるでしょうけど、まあ、それは、この辺も例えばひたすら読むだけども一つの供養の瞑想になるとは思うね。で、余裕があったらイメージも加えながら読んでいったらいいかもしれない。
「柱は宝の光によってあでやかに、天蓋はちりばめた真珠で輝き、敷石は透明に輝く水晶よりなる、芳香ただようかの浴室のうちで、快適なる香水と花に満ち、大いなる宝石で作られた幾多の水瓶をもって、この私は、如来とブッダの子(菩薩など)を洗浴する。賛歌を唱え、音楽を奏しながら。」
はい、このイメージ。これはさ、当然、皆さんのイシュタでいいですよ。イシュタっていうか、これは仏教の話なんで仏陀とか菩薩っていう話になってるけど、例えばラーマ、シヴァ、クリシュナ、あるいはドゥルガー、なんでもいい。自分の大好きな――もちろんグルでもいい。大好きな聖なる存在を思い浮かべて――これはだから、体洗ってあげてるわけだね(笑)。
はい、いきますよ。体を洗うところは、まず宝石がいっぱい散りばめられた柱がありますと。で、天蓋、つまり真珠がいっぱい散りばめられてる輝ける天蓋。ね。そして床は水晶の床であると。そして素晴らしい香りが漂ってる。ね。で、自分がそのイメージの中で、宝石で作られた多くの水瓶を持って、その目の前に、まあラーマ様でもクリシュナでもなんでもいいのでイメージして、歌を歌い、つまり、ラーマだったらね、「シュリーラム ジェイラム」とか(笑)、歌ったり、あるいは周りに音楽隊とかがいて、「シューリラム ジェイラム ジェイジェイラム」って歌いながら(笑)、洗ってる。ね。クリシュナでもいい。シヴァとかドゥルガーとかは怖そうだね(笑)。ドゥルガーがいらっしゃってトラに乗ってて、「ああ、ドゥルガー様」と。「ヘーマードゥルガー」とか言いながら洗ってると。そういうイメージだね、ここはね(笑)。
「さらに、香を薫じ、汚れなく、類のない布で、私はその(ブッダや菩薩の)体をぬぐう。」
はい、これはつまり、はい、お風呂が終わりましたと。お風呂っていうんじゃないのかもしれないけど、体を洗いましたと。で、そのあとに素晴らしい、けがれのない、清らかな、香り高い布で、その仏陀、あるいは自分の好きな神様の体を拭かせていただいてると。そして、色鮮やかな最上の衣をどうかお召しくださいと、捧げるイメージですね。
「柔軟にして優しい種々の見事な天の衣」、ね。あるいは「さまざまな装飾をもって、サマンタバドラ、アジタ、マンジュシュリー、ローケーシュヴァラ」――さっき書いてあったようにいろんな菩薩様方にも、そのような衣、あるいは装飾品の供養を捧げるんだと。
みんなの場合、これは例えばですけども、好きな神様とかがいるとしたら、その侍者とかね――例えばラーマだったら、もちろんラーマに捧げると同時に、横についてるラクシュマナとかハヌマーンとかにも捧げるとかね、いろんなそういうイメージでもかまわないと思う。
「全三千世界に薫の行き渡る最上の香料をもって、私は――火で焼き、石で擦り、酸で洗った黄金のような光沢を持つ、すべての聖者の王の身を塗る。」
はい、香料で身を塗るんだと。日本ではちょっとなじみないんですけどね、インドでは塗香、体に塗るタイプのお香があるんだね。それのことを言ってるんだけど、まあ、これはわれわれにはあんまりなじみがないんで、それはまあ、やらなくてもいいけどね。
「薫高く心を奪う曼陀羅華、素馨の華のすべてをもって、またあでやかに組み立てられた花輪によって、最も恭敬すべき聖者の王を、私は恭敬する。」
素馨の花っていうのはジャスミンの一種らしいですけどね。曼陀羅華っていうのは伝説的な花みたいですけど、まあ、これもなんでもいい。自分の好きな、あるいは日本的なものでもいいので、素晴らしい花をもって、自分の好きな神や仏陀を装飾すると。
「濃厚な行き渡るあでやかなにおいの香煙で、私は彼らを薫ずる。そして、いろいろの固い食物とやわらかい食物をもって、私は彼らに飲食の供物を供える。」
はい、これは今度はお香ね。お香を捧げると同時に、さまざまな食べ物、ね、自分の想像できるいろんなおいしいものを捧げて、食べていただくと。
「また私は、黄金の蓮華の中に連ね並べた宝石の灯明を供える。そして香料の塗られた床の上に、楽しい花束をまきしく。」
はい、これも、書いてあるとおりね。宝石で作られた灯明を供養し、そして、素晴らしい花束をその床にまくんだと。
「さらに私は、真珠と宝石のすだれで美しく輝き、諸方の面の装飾の光彩陸離たるかの楼閣の雲集と、楽しい賛歌とを慈悲尊に供養する。」
はい、この辺はなんか難しいけどね。「真珠と宝石のすだれで美しく輝いた楼閣」――まあ、これも別になんかとらわれなくてもいいので、自分がイメージする宮殿でもいいし、さまざまな素晴らしい建物とか道場でもかまわない。こういったものを捧げますと。
「優雅な黄金の柄によって高く掲げられ、真珠をちりばめて極めて美しい宝の傘を、この私は偉大なる聖者のためにささげる。」
はい、これはインドは暑いので、まあ、日傘ね。日傘を王とか聖者に掲げるわけですね。そのイメージですね。『ラーマーヤナ』の実写版とかを見てても、日傘を捧げたりしてるよね。あのイメージですよね。
はい。で、「これらのさまざまな供養の雲集」――雲集っていうのは、雲の集まり。これはつまり「たくさんの」っていうことです。もうほんとに無数の。だからほんとにちょっとしたものではなくて、もう宇宙に広がるぐらいの、もう、なんていうかな、全宇宙に遍在するほどの、さまざまな供養の供物が「さあ、起こりあがれよ」ということだね。
「宝のごときすべての正法の上に、またストゥーパと仏像とに、絶え間なく、華と宝等の雨はふれかし。」
これは読んだとおりね。正法――まあ、正法っていうのはかたちがないですけども、つまり真理のダルマ。そして、まあ仏陀を象徴するストゥーパとか仏像とかにも、花とか宝等が雨のように降り注ぎなさいと。はい。
「妙音(マンジュシュリー)等が勝者(如来)を供養するように、私は尊き如来とブッダの子とを供養する。音調の区分が海のように豊かな賛歌によって、私は功徳の大海をたたえる。そして、称賛合唱の雲が、彼ら(ブッダや菩薩)に対し、たがわずに起こらんことを。」
はい。これもイメージとしては、世界中の神々、修行者、ね、あるいは人間やほかの生き物含めてみんなが、美しい賛歌で仏陀や神をたたえてるんだと。そのイメージですね。
「また一切の仏国土にある微塵の数に等しい敬礼の数で、私は法と最勝なる(菩薩の)集団とを伴う一切三世のもろもろの覚者に敬礼する。」
はい、これは「仏国土にある」っていってるけど、まあ全宇宙っていってもいいわけだけど、微塵――微塵っていうのは原子のことです。つまり全宇宙にある原子。これは数えられないぐらいあるわけだね。そういう表現ね。つまり全宇宙にある原子は数えられない。でもその数えられないぐらいの数をもって、ダルマと菩薩の集団を伴う、覚者、仏陀ね。まあもちろん、繰り返すけど、みんなの場合は好きな神様でもかまわない。その聖なる神や仏陀に対して、今言った、原子の数と同じぐらいの無数の礼拝、供養を捧げるんだと。
「すべてのストゥーパを、また菩薩の所依を私は崇拝する。拝むべき親教師に、また長老に帰命する。」
はい。ストゥーパ、これは仏陀を象徴するものね。「菩薩の所衣」っていうのは、菩薩を表わすいろんなものや、あるいは菩薩に関係するさまざまなものだったり、あるいは概念的なものだったり。これをわたしは崇拝すると。そして「拝むべき親教師、また長老に帰命する。」――親教師っていうのは実際に――まあ、シャーンティデーヴァはもともと出家してた僧だった人なので、実際に出家者を導く、なんていうかな、担当となる教師のことですね。そういった方々、あるいは長老の方々に帰依しますと。
「覚醒の境地を得るまで、私は覚者に帰依する。また真理の法に帰依し、菩薩の集まりに帰依します。」
はい。よくこれさ、こういった帰依の祈りで、「覚醒の境地に至るまで」とか、あるいは、礼拝の祈りでもそうですね。「覚醒の精髄を得るその日まで」と。これさ、つまり、え、だって、仏陀とか神への帰依っていうのは、じゃあ覚醒の境地を得ちゃったらもうしなくていいのか?って考える人いるかもしれないけど、これは、意味わかるよね? つまりここで言ってる覚醒の境地っていうのは、つまり、一体化です。つまりその境地に至ったら、もう帰依も何もなくなってしまう。
まあこれは、ラーマクリシュナのちょっと冗談っぽい話で――もし弟子がグルに解脱の秘儀を尋ねたら、絶対にグルは弟子から、事前に授業料をもらわなきゃいけないと。なぜかっていうと、後払いとかにしちゃうと(笑)、弟子が解脱した瞬間に、グルと弟子は一体化してしまうので、払えなくなっちゃう(笑)。だから必ず前払いしろと(笑)。まあ、これはもちろん冗談なんですけど。ユーモアなんだけど、まあ、そういうところがあるんだね。
でもこれは一般的な教えであって、もちろんバクティ的、あるいは本当の菩薩道っていうのは、当然、なんていうかな、将来的にもちろん皆さんが完全な覚醒者には当然なるでしょうけども、しかしそれは別に考えない。そうじゃなくて、「永遠にわたしはあなたのしもべです」と。「永遠にわたしは」――例えば観音菩薩みたいにね。観音菩薩っていうのはその象徴なんだね。観音菩薩は、皆さん知ってるように、菩薩っていうのは一般的には、ボーディサットヴァっていうのは、仏陀に至る途中の者を指します、普通はね。まだ仏陀になっていないと。仏陀を目指して頑張って大乗の修行をしてるのが菩薩っていうんだけど、しかし観音様は本当は完成者なんだね。実は如来なんです、観音様って。しかしあえて菩薩としてのフォームを取り続けてるんだね。そういう謙虚な気持ち。
つまり、だから実際にはこれは一般的な意味で「覚醒の境地を得るまで」って言ってるわけだけど、より深くは、今言ったように、それは覚醒の境地を得たら一体化するから、帰依するとかしないとかもなくなるからそれはそれでいいんですけども、より深い意味として、しかしわたしはどんなに高い解脱に至ろうとも帰依をし続けるんだと。
まあ、もう一回言うけど、観音様っていうのは、皆さん知ってると思うけど、もちろん今言ったように完成者なんだけども、常に自分の頭の上に――観音様のグルって、阿弥陀如来ね。アミターバ。いつも阿弥陀如来の頭を載せてるんだね(笑)。つまり、自分は本当は完成してるんだけども、その自分を完成に導いてくれた師、阿弥陀如来への敬意を常に忘れないと。そして自分は常に菩薩としてのフォームを取り続けると。これは、本来的な気持ちとしては大事なことですね。しかしまあ別に、形式的には、皆さんも礼拝するときもそうですけども、この詞章もそうだけど、まあ普通は一般論としては覚醒イコール一体化なので、こういう詞章でかまわないですけども、心の奥底ではそういうふうに考えてたらいいね。
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