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解説「菩薩の生き方」第六回(4)

 で、ここに書いてあるのは、それはなぜかっていうと、菩薩の目指しているものがすべての魂の救済だから。そこに行くまでは心の、言ってみれば欲求ですね。心の欲望っていうのは終わらない。われわれがこの世に求めてる欲望っていうのは、すべて非常に短いっていうか。まあ、これもいつも言ってるけど、おいしいものを食べるなんていうのは、ほんとに舌と喉を通過すれば終わってしまうから。で、お腹いっぱいになっちゃえばちょっと食欲もなくなって、まあ、その時点で終わってしまうと。あらゆる欲望っていうのはそういう性質があるわけですけども。じゃなくてこの、衆生を救いたいっていう欲、みんなを、まあ言ってみれば、完全な、後戻りのない、幸せな境地に安住させたいっていう欲っていうかな、決意っていうか、渇望っていうのは、増大こそあれ、終わることはない。何度も言うけども、それがなされるときっていうのは、すべての魂が救済されたときだから。で、そのために励み続ける。
 で、ここにも書かれてるけど、それがただ単純に心の希望だけであってはいけないので、実際にじゃあそうするためにはどうしたらいいのかと。つまりここでさっき「欲」っていう言葉を使ったように、これは、まさに欲ぐらいのレベルまで引き上げられなきゃいけない。つまり素晴らしい教えを学んで、「ああ、そういう考えは素晴らしいな」とか、「わたしもそう思うようにしよう」ではなくて、欲です。欲っていうのは、まさに――だからこの中でも皆さんは、過去にいろんな煩悩に狂ったことがあるかもしれない。それくらいのもんですね。煩悩に狂って、例えば「もうあれが食いたくてしょうがない!」もうそれで心が落ち着かないと。あるいは好きな人がいるとして、「あの人と会いたくてしょうがない!」と。で、心が落ち着かない。あるいは若いときとか性欲で悶々として(笑)、性欲の、特に若いばかな学生とかがね、「あのエロ本を買いたくてしょうがない!」(笑)とか、いろいろあるよね(笑)。あるいは例えばオタクの場合、「このフィギュアを絶対手に入れるんだ!」(笑)。いろいろあるよね。もうそれで頭がいっぱいで、すべてがそれで吹っ飛んで、何も手につかないみたいな、それぐらいの、欲ぐらいのレベル。まあつまり渇愛ですけども。渇望っていうかな。これぐらいのレベルに、菩提心、つまりみんなを救いたいと。みんな幸せになってほしいと。みんなが苦しんでるのは見てられないっていう気持ちを、それぐらいのレベルに押し上げると。
 そうすると、自ずとですよ、自然にやることは決まってくるんだね。「まずおれが解脱しなきゃ」と。ね。いつも言うように、自分が盲目なのに、盲目の人を導くことはできない。それは一緒にどっかに落っこっちゃう。あるいは自分にパワーがないのに、気持ちだけでパワーをあげてるとか言っても、それはなんの足しにもならない(笑)。つまり自分がもっともっと智慧を付け、もっともっとエネルギーを浄化し、エネルギーをアップし、もっともっと神とつながり、バクティ的に言うならば、純粋に神の道具になれるように、ね、自分をもっともっと高めなきゃいけない。だからそのためにわれわれは解脱を目指さなきゃいけないんだよ。われわれはニルヴァーナに入るつもりはないが、当然解脱は目指さなきゃいけない。解脱っていうか、聖者にならなきゃいけない。そんじょそこらの聖者じゃない。ね(笑)。あらゆる魂を救うぐらいの聖者にならなきゃいけないわけだから、皆さん、もちろん例えばいろんな聖者を知ってるでしょうけど、そういった聖者をまず目指すと。この地球に現われたいろんな聖者にまず憧れを持って、わたしもああいう聖者方のようにならなきゃいけないと。それは自分の幸せのためじゃなくて――わたしは、だってみんなを救いたいんだと。わたしと縁のある衆生が――まあ、特に身近な人から始めてね、自分の家族や友人や親族や、あるいはもちろん自分が知らないいろんな生き物や動物も含めて、ね、苦しんでるのは見ていられないと。この強い欲求。で、それを、もう一回言うけども、現実的に叶えるには、ウダウダとみんな救われればいいなと思ってても埒は明かないと。あるいはみんな修行しろっていっても修行しない場合、なんていうかな、まさに時間の無駄であると。でも自分の意志っていうのは、自分の世界、自分のこの五蘊っていうのは、自分の意志でなんとでもできる。だからいつも言うように、みんながやらないんだったら――もちろん「修行してくださーい」って言ってみんな修行するんだったら最高だけど(笑)、みんながやらないんだったらおれがやるしかないと。おれがみんなの分もいっぱい修行して、早く早く、自分一人だけではなくて、みんなも乗せられる船、大きな船になれるように――だからこれがね、前にも言ったように、大乗的な意味での「自己を島とせよ」っていう意味なんです。
 お釈迦様は最後の遺言みたいな言葉として、「自己を島としなさい」っていう教えを説いた。で、この「自己を島とせよ」っていう教えは、のちの人によってこれもいろんなふうに解釈された。まあ、言ってみればお釈迦様は、何度も言うように、シンプルな教えしか説かなかったから、のちの人がいいようにいろいろ解釈してるんだね(笑)。どうにでも解釈できる。だからこの「自己を島とせよ」っていうのも、一般的にはいろんなふうに解釈されてるけど、大乗的な解釈で言うならば、今言ったような解釈になる。つまり、自分だけの島じゃなくて、みんながこの輪廻の苦しい世界で、この島で安らげるように、まあそれは一時的な休息かもしれないけども、みんなが自分をよりどころとして、休んで、そこで自分を奮い立たせて、みんなも偉大な菩薩とか解脱者になっていけるような――まあ、ラーマクリシュナがヴィヴェーカーナンダに、「おまえはみんなが安らげるバンヤン樹となれ」って言ったようにね、そのような島にならなきゃいけない。そのためにこの人生を使おうと。ね。全力で修行して、今生のうちに、できるだけ自分のステージを上げると。そして、チャンスがあったならば当然みんなを、救うっていうか、みんなの修行を手伝うようなことをしっかりと行なうと。
 このように、もう一回言うと、衆生を救いたい、その菩提心の当然の帰結として、自分の修行を全力で頑張るっていう方向が、出て来ざるを得ないんだね。

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