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解説「王のための四十のドーハー」第一回(8)

【本文】

あまたの異なる河があるが、それらはすべて一つになって大海に至る
あまたの偽りがあるが、ただ一つの真理がそれらすべてに打ち勝つ
あまたの暗闇があるが、ただ一つの太陽が昇るとき、それらはすべて消え去る

 
 まず、あまたの異なる河が一つになって大海に至るというのは、様々な修行の道も最終的には同じ唯一の真理に至るという、ラーマクリシュナの教えを思わせるね。それぞれの河の流れるスピードや川幅、あるいはその道が自分に合っているのかどうかとかの違いはあるにしてもね。
 あるいはもう一つの解釈としては、我々が作り上げてきた様々なけがれた経験の構成、カルマの流れ、それらが修行によってすべて一つとなり、昇華され、至福の大海に至るという意味にとることもできるかもしれない、
 そして、あまたの偽りにただ一つの真理が打ち勝つ。また、ただ一つの太陽が昇るとき、あまたの暗闇が消え去ると。
 あまたの暗闇っていうのは、つまり、ここも暗い、あそこも暗い、そこも暗いっていうことだね。湘南台も暗いし、上星川も暗いし、駅のあっち側も暗いし、全部暗いですねと。しかし朝になり、太陽が一つ昇れば、すべて暗闇は消えると。
 もちろんこれは例えなんで、でもどこか陰になってると暗いんじゃないですかってなっちゃうけど(笑)、それはまあなしとして、ただ一つ太陽が昇れば、湘南台にも上星川にも東京にも朝は来ると。これと同じように、「あまたの偽りがあるが、ただ一つの真理がそれらすべてに打ち勝つ」。
 そしてこのただ一つの真理っていうのが、さっきも出てきた、われわれの中にもともとある心の本質、仏陀の本質なんです。だから、段階的な悟りっていうのはもちろんあるよ。段階的っていうのは、まず例えば教学によって悟る。教学によって教えを理解し、「あ、なるほど、そういうことだったのか。分かりました」と。これはもちろんこれで価値がある。しかしそれはあくまでも段階なんだね。最終的にわれわれは唯一の真理を悟る。これが、われわれの中にもともとある仏陀の本質。それを悟ったとき、あらゆる暗闇は消え去る。
 もともとこのマハームドラーとか、まあゾクチェンとかもそうだけど、その系の教えっていうのは、この唯一の真理、自分の心の最高の本質に焦点を合わせ、それに集中し、それを直接悟っちゃおうっていう教えなんだね。ただ実際にはもちろん、すぐにそれをやろうとしてもできない。よって、いろんな準備作業が必要になる。
 例えば、最初にちょっと言うの忘れてたけど、このサラハっていう人は、実は、もともとの名前はラーフラバドラっていうんですね。ラーフラバドラっていう名前だったそうですが、さっき言った、自分の師匠でもあるダーキニーね、矢を作るダーキニーに出会ったときに、そのダーキニーとのやり取りを通じて、サラハはそのダーキニーの象徴を見抜いた。そのときに一種の悟りを得たわけですね。その悟りを得たときに、その矢を作るダーキニーは、「おまえは今日からサラハだ」って言ったわけだね。で、このサラハってどういう意味かっていうと、「矢を射る者」っていう意味なんです。つまりこのとき、サラハは矢を射たと。矢を射たってどういうことかっていうと、心の本質、仏陀の本質に対してズバッと矢を射抜いたと。そういう表現なんだね。
 で、考えてみましょう。矢を射るってどういうことでしょうか。グーッと矢を引いて、ズバッと手を離すと。さあ、われわれが無智だったら、この矢を、「さあ、あの的に当てましょう」っていったときに、じゃあおまえ、まず引いてくださいと。もしその人がほんとに無智で、弓矢っていうのを知らなかったら、「え? なんで引くんですか?」と。だってあっちに行かなきゃいけないのに、何引いてんのと。おれはこれを引きたくないよって思うかもしれない。でもこれは準備として必要なんだね。グーッと引かなきゃいけない。だからこれは、例えて言うと、われわれのさまざまな修行です。つまり、われわれが最後にやらなきゃいけないことは、心の本質にズバッと矢を突き刺さなきゃいけない。しかしいきなりそれはできない。なぜかというと、この矢はまだ力がない。飛んでいく力がない。飛んでいく力をためるには、弦を引っ張らなきゃいけない。でも無智な者には分からないんです。「なぜ弦を引っ張ってるんだろう?」――で、その人は次は、その弦を引っ張ることに価値を見いだしたりする。「そうか、修行っていうのは弦を引っ張ることなんだな」と。それはまあ正しいんだけど、そこで観念的にとらわれてはいけない。で、これは引っ張れば引っ張るほどいいです。強い勢いで矢が飛ぶから。で、問題は、最後にこれを放さなきゃいけないっていうことです。つまり、「さあ、おまえは偉大な徳と偉大な教学を達成したね」と。「おまえに敵う者はないほどだ」と。「じゃあ最後の修行だ」と。「それを全部手放しなさい」と(笑)。「そこに悟りはないよ」と(笑)。その手放す作業が最後にできるかどうかなんだね。徹底的に蓄えたものを最後に手放したとき、矢は飛んでいく。飛んでいって心の本性に突き刺さる。このプロセスが踏めるかどうかです。
 もちろん、それ以外のプロセスもある。例えば弓を引くときに、すべり止めとしてなんか手に粉を付けなきゃいけないかもしれない。もしくはその前に、まあ、ね、いろんな作法があると思うんだね。例えば弓に油を塗るとか、弦をしっかりこうピーンと張るとか、いろんな作法がある。でも、それをやってる人は無智だから分かんないわけです。例えば師匠が「おまえはまず弓を張りなさい」と。でも修行者の弟子は、「なんでうちの師匠はそんなこと言うんだろう?」と。「おれは矢をあの的に当てたいだけなのに、なんで弓を張れとか言うんだ」と。だってそれはもちろん弓が張ってなかったら、勢いが出ない。でも弟子はそれが分からない。でもちゃんと信のある弟子は言われたとおりにする。で、さっき言ったように、言われたとおりにするのはいいんだが、今度はその自分がやってることに執着するようになる。でもそれもしてはいけない。で、最終的に十分に準備が整って――その準備っていうのはさっきから言ってる、徳を積んだり、自分の心を浄化したり、あるいは教学をしたり、いろんなことがあるわけだけど、それが十分整った段階で、最終的にすべてを手放す。そしてその教えが正しければ、ストレートにその矢は自分の心の本性に飛んでいって、突き刺さる。
 これは一つの「サラハ」という、「矢を射る者」という名前の由来としてのね、例えだけども。そういうイメージがあるんだね。やることは一つなんだけど、それがいきなりはできないために、その準備っていうのは徹底的に必要になる。しかしやることは一つなんだ。ただ一つの心の本性を目覚めさせる、それだけなんだ。目覚めさせるっていうか、もともと目覚めてるんだけど、目覚めてるものに気付くだけなんだ、っていうことは、われわれの頭の片隅に置いておいたらいいと思う。

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