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解説「王のための四十のドーハー」第一回(5)

【本文】

気高きマンジュシュリーに礼拝いたします。

マーラの力に勝利せし者に礼拝いたします。

 はい、まず序文ですが、

気高きマンジュシュリーに礼拝いたします。
マーラの力に勝利せし者に礼拝いたします。

 この二つ目の「マーラの力に勝利せし者」っていうのは、これはお釈迦様のことです。で、最初のマンジュシュリーっていうのは、まあ日本でいうと文殊菩薩のことですね。だいたい大乗仏教や、あるいは密教の世界では、このマンジュシュリー、文殊菩薩か、もしくは観音様ね、観音菩薩か、もしくはマイトレーヤ、弥勒菩薩などに、まあ、強い絆を持つっていうかな、祈りを捧げる場合が多いね。

【本文】

風が吹くと
静かな水面が波やうねりに変わるように
王はさまざまな思いを集める
サラハとして見えるものの上に

 はい。最初から、よく分かんないのが来ましたね。これは多分ね、今から解説しますが、解説すると、皆さん多分、「あ、そういうことか、なるほど」って分かると思います。でも、もう一回言うけど、それだけじゃないと思ってください。もっと深い何かがある。それは論理的なっていうよりは、ハッと皆さんが、心に、なんていうかな、ヒントを受けなきゃいけない何かがあるって考えてください。はい。一応解説すると、

風が吹くと
静かな水面が波やうねりに変わるように
王はさまざまな思いを集める
サラハとして見えるものの上に

 はい、「風が吹くと 静かな水面が波やうねりに変わる」。これはまあ、分かりますね。水面――静かな、海でも湖でもいいけど水面があったとして、風が吹きました。波が発生します。あるいはうねりっていうか、いろんな波紋とかが出ます。これはよく出る例えなんだけど、じゃあ波と海は違うのかっていう問題がある。違わない。波と海は変わらない。しかし、その動いてるものを海と呼ぶわけではない。動いてるものはあくまで波なんだね。しかしその波というのは、海の一部が変化した姿にすぎない。われわれの見ている現実と呼ばれるもの、これもこれと同じように、さまざまなカルマの風、もしくはわれわれの煩悩の風によって、本当は透明で、なんの差別もなく、なんの苦もなく、なんの動きもない心の本質に生じた、さざ波なんだね。で、そのさざ波というのは、海から離れていないんです。心の本質から離れてるわけではないんだが、われわれはその生じたさざ波を実体のあるものと勘違いし、で、執着したり嫌悪したりっていうのが始まるんだね。
 で、ここで、「王はさまざまな思いを集める サラハとして見えるものの上に」って書いてあるのは、つまりここに王様が来るまでの、王様のさまざまな精神的葛藤を表わしています。つまり、王様はもともとサラハを気に入っていた。なぜかというと、ブラーフミン、つまり高貴な家の出で、大変優秀なヒンドゥー教の、まあお坊さんだったと。で、社会的にも非常に信頼されている。しかも頭がいいと。しかも非常に素直だと。サラハに対してそういうふうに見ていた。で、そのあと彼が仏教に出家したと聞いて、大変、サラハに対するネガティブな見方が育ったわけだね。「ああ、仏教っていうのは外道である」と。「間違った教えに彼は出家してしまった」と。そしてさらに次に、矢を作る職人の女と一緒に火葬場で歌ったり踊ったりしてると聞いたときに、もう完全にサラハに対する、哀れみというか、あるいは蔑みというか、つまり、「ああ、悲惨な状態になった」っていう思いが生じた。
 しかしサラハのところに王様が来たっていうことは、もちろん王様の中にもまだサラハに対する期待であるとか、希望であるとか、あるいは何か勘違いであってほしいっていう思いもある。そのような思いでやって来た王様が、サラハに質問するわけです。「おまえ、こうこうこういうふうに聞いてるけど、どういうことなんだ?」と。「説明してください」と。で、その王様のその心の働きに対する一つの、ここはまず一番最初の指摘だね。
 「あなたがサラハと呼んでいるわたし、それはどこかに実体があるんでしょうか?」と。あなたの中で、例えばいろんな人の噂を聞いたり、いろんな場面を見たりして、勝手に自分でさざ波を立てて、「ああ、こいつは素晴らしい。こいつは駄目になった」――こんなことをしてるだけなんじゃないですかと。
 これはさ、われわれも日常生活でも似たようなことがよくあるよね。噂ってよくあるじゃないですか。例えば自分の中で、「ああ、あのAさんっていう人はすごく憧れの先輩だな」って思ってたのが、誰かほかの人が来てね、「ちょっと、あの人はやめときなさいよ」と。「Aさんって陰ではこんな、こんなんなんだよ」と。それはもしかするとその言った人がAさんを好きで、恋敵としてその人の邪魔をするためにAさんの悪口を言っただけかもしれない。でもそれを聞いた人は、Aさんに対してネガティブなイメージを持つ。でも、その人がね――例えばもうちょっと具体的に言うと、Mさんがある男性に憧れてね――なぜ憧れたかっていうと、その男性が優しくしてくれたと。例えば、自分はほんとは早く帰ってもいいのに、残業してまで自分の仕事を手伝ってくれたと。「ああ、優しいわ」と。優しいわと思ってたら同僚が近づいてきて、「やめなさいよ。あのAっていう男はこんなでこんなで、こんななんだよ」と。「わたしもひどい目に遭った」って言われると。で、そこでMさんは、「ああ、そうなんだ」と。「うわっ、もうそんな男、わたしは近寄りたくもない」と。
 ここで問題は、第一の思いももしかすると間違いかもしれない。なぜかというと、もしかするとそのときAさんは、例えば奥さんがうちで怒ってて、家に帰りたくなくて、会社にいたのかもしれない(笑)。分かんないけどね。それを優しいと勘違いしたのかもしれない。で、もちろんそのあとの同僚の言葉も、単なる嫉妬心からの嘘かもしれない。もしくは嘘ではないんだけどその人の偏った見方かもしれない。とにかく分かんないわけです。しかしわれわれは、そういった人の言葉、あるいはちょっと自分が見たときのフィーリングに左右されて、勝手にイメージをつくりだす。ワーッてイメージをつくりだすんだね。
 わたしそういえば、自分の体験としてね、こういう経験がある。高校生のときに、わたし柔道部にいたんだけど、よくその柔道部の部室でね、話題になる――まあ、わたしが行ってた高校って男子校なんだね。男子校で、しかも柔道部です。女っ気全くなし(笑)。もう非常に男臭い世界で。でももちろん女性に興味がある年代だから、女の話とかいっぱい出るんだね。で、その柔道部にいるときに、その柔道部の女好きのやつがいて、他校のね、つまり女子がいる高校の、ある、すごいきれいな女性の話題をよく持ってくるんです。で、いつもそれを聞かされるんだね。「ああ、あの子はほんとすごい」と。「こうでこうで」と。で、それが、なんていうかな、時期によって内容が、ほかの人からの話とかも、いろいろ変わってくるんだね。例えばすごくおしとやかで清楚でって最初聞いてたんだけど、「いや、あの子はほんとにもう、誰にでもいい顔する、ちょっと安心できない女だ」とかね。で、そこでわたし最初イメージで、「え、そんないい子がいるんだ」って思ってたのが、「え、そうなんだ」ってなって、いろいろ変わるわけです。毎回ね。そいつの言うこともなんか毎回違うし、ほかの人から聞くとまたちょっと違う。で、わたしはその当時から修行してて、ヨーガとかやってたから、いつもね、なんていうかな、例えば友達とかがね、学校終わって遊びに行くとか、街に遊びに行くとか、あるいはちょっとナンパしてこようぜとかいう友達もいたわけだけど、わたしはすぐに家に帰ってヨーガとかやってた(笑)。だから、そういう話っていうのはただ聞くだけだったんだけど、今言ったように、いろんな人から、ある、まあA子さんっていう女性のいろんな違う評価を聞くにつけね、あるときふと思ったんです。「A子さんって存在するの?」と(笑)。
 つまり、ずーっと、わたしも振り回されてたんです。別にA子さんとどうしようとは思ってないけど、「あ、そんなにいい人なんだ」って思ったら、今度は別の人の話を聞くと、「え? そんな嫌な女なの?」と。でも別の評価を聞くと、「まあ、そういうことか」と。「そういうこともあるだろな」と。つまり会ったこともないんだけど(笑)、そのA子さん像ってコロコロ変わるんだね。で、それに自分が心動かされてて。で、あるとき、「存在するのかな?」と(笑)。「実在するんだろうか?」っていうふうに思った。結局A子さんに会ってないから分かんないんだけど、いまだに(笑)。
 まあ、そういう思い出がある。で、これはわたしは結局そのA子さんに最後まで会わなかったんだけど、でも実際に会ってる人でも同じです。つまり、例えば実際に会ってたとしてもね、なんかいろんなきっかけで、人間ってその人に対する思いを持つじゃないですか。それは例えば、ちょっとした仕草かもしれないよ。恋愛に落ちるときってそうだよね。なんだっていうんじゃないんだけど、あるときふとした仕草がハッと自分の心に響いて、その人が好きになってしまう。で、その人が好きになってしまうと、自分が恋愛の魔法にかかってる間っていうのは、その人がやることのいろんなことが良く見えてしまう。で、それでどんどんその人の幻想みたいなのが膨らんでいく。でもその人の本質とその幻想はかけ離れている。で、さっきも言ったように、また別の情報が入ると、またその幻想にちょっとプラスアルファで、それが良くなったり悪くなったりする。でも実体はどうなんだと。全部あなたの中の、勝手な作り事じゃないかと。
 つまりそれは、もう一回言うけども、「サラハ」っていうのはどこにもいない。それはただの約束事にすぎない。約束事にすぎないものに対して、確固たるあるイメージをつくる。それは何かっていうと、さっきも言ったように、カルマであったり、自分の煩悩であったり、あるいはカルマによって人から聞いた話であったり。それによって、まあ、この場合はサラハっていう人が対象になってるわけだけど、実際はもちろんそれだけじゃなくて、日常のさまざまなものに、勝手にいろんなさざ波を立てて、固定した見方をしてるのが今のわれわれの状態なんだね。
 で、それを、一番最初に自分自身を例に出してね、王様が、サラハ、つまりサラハ自身に対して見てるその態度を一つの例として、真理をまず述べたわけだね。
 さあ、今日はですね、もちろん、今日これ全部終わらせるつもりはないので。それからさっき言ったように、この教えっていうのは、悟らなきゃいけない教えなんだね。ちょっと今日はいつもと勉強会のやり方を変えて、ちょっとだけ皆さんで瞑想してみましょう。瞑想のテーマは今の詩です。この一つの詩――

風が吹くと
静かな水面が波やうねりに変わるように
王はさまざまな思いを集める
サラハとして見えるものの上に

と。まあ、わたし今解説しましたが、その解説について瞑想してもいいし、あるいはこの詩を読んで自分なりに瞑想してもいい。はい。目は開けてこの文章を読みながらでもいいし、目をつぶって考えてもいいけど、しばらくこれについて考えてみましょう。はい、じゃあ少し瞑想しましょう。

(瞑想)

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