yoga school kailas

解説「ミラレーパの十万歌」第三回(10)

◎カルマヨーガ

 「修行」に関して、輝く流れの中には
 ステージは、全く見られない。
 修行における忍耐は確定される。
 行為者と行為が、ともに破棄されたとき。

 主体と客体が一つである、輝く領域においては
 私は何の因も見ない。すべてが空だからである。
 行為と行為者が消えるとき
 すべての行為は正しくなる。

 はい。これもね、軽く言うけども――ちょっとまた話がずれるけど(笑)、わたし、このミラレーパの話とか、あと密教、チベット密教の聖者の言葉とかを見ると――まさにここもそうなんだけど、『バガヴァッド・ギーター』に非常に近いという感覚がするんだね。もともと仏教の密教っていうのは、八世紀とかその前後ぐらいに、インドにおいていわゆるヒンドゥー教の中の密教、これはシヴァ派と言われる派とか、いわゆるタントラ派とかね、シャクティ派とか言われる密教のグループがあって、そういうのと仏教が融合したかたちで、仏教の密教も成立していったって言われるんだけど、わたしの予想から言うと、それだけではない。つまり『バガヴァッド・ギーター』的なバクティヨーガの教えも相当入っています。仏教の中にも。入ってるっていうよりも、お互いに影響を与え合ったのかもしれないけどね。だから特にこのチベット仏教とかで説かれるいろんな究極的な教えっていうのは、『バガヴァッド・ギーター』にもすごく近いんだね。で、この一説なんかはまさにそうでしょ。

 行為と行為者が消えるとき
 すべての行為は正しくなる。

 これはまさにカルマヨーガです。ね(笑)。行為するっていうことと行為者っていうものが消え去る。そのとき真の行為が生じると。これもだから、なんていうかな、しっかりと瞑想するしかないね。

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