神聖なる自己否定

 神聖なる自己否定が必要だ。 
 そしてそれは実は、神聖なる自己肯定につながるんだ。 
 今の自分の汚れを、決して肯定しちゃいけない。 
 自分はまだまだだ、まだまだだ、と常に思い続けること。 
 修行が進めば進むほど、その思いは強くなる。 
 それが神聖な自己否定だ。 
 そこに卑屈さはない。あるのは前進の意志だけだ。 
 そして、それは同時に神聖なる自己肯定である。 
 つまり自分は神に守られている。 
 自分は今は汚れているが、本質的には穢れなき真我である。 
 自分が真理を求め続ける限り、道は開かれる。 
 そこには傲慢さはなく、また、ただの楽観視でもない。 
 自己を投げ出したところにくる確信がある。 
間違った自己否定は、卑屈さを生む。それはプライドの裏返しに過ぎない。つまり間違った自己肯定が、間違った自己否定を生む。
間違った自己肯定は、慢心を生む。それは心の弱さからくる。弱いから、逃げたいから、否定しなければならないことを肯定して、自分を安心させる。
だから心の強さが必要だ。
心の強さは、内側の強さだ。そして内側に強い人は、外側に優しい。
卑屈にならずに、神聖なる自己否定をしよう。
傲慢にならずに、神聖なる自己肯定をしよう。
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