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心構え

 ラーマクリシュナの直弟子の一人、スワミ・トゥリヤーナンダは、長年の激しい苦行や救済活動によって、晩年はいくつもの激しい病に苦しめられましたが、不平不満を言うこともなく、じっとそれらに耐えていました。
 ある人が、どうしてそのような苦しみに耐えることができるのかと聞いたとき、トゥリヤーナンダはこう答えました。

「師(ラーマクリシュナ)との交わりで得た至福は、わたしの全生涯の苦しみをつぐなってあまりあるものだった。」 

 この話は、師への純粋な愛や信仰心の話として感動的ですが、また別の角度から見ると、ヴィヴェーカーナンダや他のラーマクリシュナの弟子にも共通して見られる、ダーシャ・バクティ的な、あるいはサムライ的な、神の道具としての心構えが感じられる気がします。

 ラーマクリシュナの弟子たちは、ラーマクリシュナの道具として、手足として、ラーマクリシュナの救済活動のそれぞれのパートを担うために生まれてきたといわれますが、このような使命を受けたバクタにとって、その生においてなすべきことは、その使命の遂行、無私の奉仕だけであり、自分のエゴや欲求を満たそうという考えは一切ないわけです。
 それなのに、優しい主や師は、様々な至福を与えてくださった。
 トゥリヤーナンダや他の近しい弟子たちがラーマクリシュナと接していたのはラーマクリシュナの晩年の五年間ほどだけでしたが、彼らにとってはそれだけでも十分だったのでしょう。もともと自分のためには何も求めていないのに、こんな喜びを与えていただいた。これで今後一生、たとえどんな苦難があろうとも、すべてをささげて使命に自分を投げだせる。そのような謙虚で殊勝な思いがあったのではないでしょうか。

 現代では日本でも西洋的な自己主張、自己実現、エゴ肯定の概念が一般化し、なかなかこういう話は一般的には受け入れられなくなってきているかもしれませんが、バクティや菩薩道を行く者はもちろん、すべての修行者、いや、まだ修行していない人たちも含めて、自分は人から何かをやってもらったり幸せを受けるためにではなく、世界のためになにがしかを奉仕するためにここにやって来た、という心を持って生きるならば、人生におけるよけいな不満は消えていき、そして結果的にはより大きな、本質的な幸福を得るでしょう。

 

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