スワミ・トゥリヤーナンダの書簡集(25)
1913年2月20日
ラーマクリシュナ・アドワイタ・アシュラムにて
親愛なるスレシュ[スワミ・ヤティシュワラーナンダ]へ
2月9日付けのあなたの手紙を受け取りました。
人はただの道具であり、主が操縦者です。主がそのお仕事をおさせになる者は祝福されています。この世界ではあらゆる人が働かなければならず、誰もそれから逃れることはできません。しかし、自己の目的のために働く者――彼の仕事はマーヤーから解放する代わりに、その者を束縛します。反対に、主のために働く賢明な者は、仕事という足枷を断ち切ります。
「私ではなく、主が行為者です」――この智慧は束縛を断ち切ります。これは絶対的な真実です。「私が行為者である」という考えはただの迷妄です。なぜなら、この“わたし”が誰なのかを突き止めることは難しいからです。もし人がこの“わたし”を注意深く分析するなら、本当の“わたし”は神の中に溶け込みます。われわれが肉体、心、知性などを自己と同一化することは、無智から作り出された単なる妄想です。それらは長く続くでしょうか? 識別がそれらすべてに終止符を打ちます。それらはすべて消え、そして一つの実在だけが残ります。――すべてがそこから展開し、あらゆるものがそこで安らぎ、そしてそれらは最後にはそこに溶け込みます。その実在は絶対の存在-絶対の智慧-絶対の至福、またはブラフマン、自我意識の目撃者です。そしてそれは宇宙を創造し、維持し、消滅させる遍在する主であり、これまでまったく触れられたことがありません。
この世界という機械は神に基づき、彼の力を通じて機能しているのです。遊び好きの主は、彼の遊戯を見て楽しんでいます。主によって理解させられた者だけが知ることができ、他の者はたとえそれを聞いたとしても理解できません。彼らは惑わされて、自分自身が神から離れていると思っているのです。これは彼のマーヤーです。もし人が自分自身を主に明け渡しながら働くなら、このマーヤーは消え去ります。そのとき行為者は自分が行為者ではなく、道具であったと悟ります。これが行為の中の非行為と呼ばれます。これは自分自身は何もしていないと悟ることであり――これがジヴァーン・ムクティ、つまり解脱です。真我は人間の姿を、その肉体で生きながら解脱の至福を享受するためにあると見なします。さもなければ、永遠に自由な真我が単に世俗的な楽しみを求めるために生まれてくるのはおかしなことです。人の人生の究極のゴールは、肉体を持ったままで肉体のない状態を経験することです。これを得ると、人は人生に充足感を見出します。
わたしは師に真摯にこう祈ります。われわれが彼の恩寵によって今生でジヴァーン・ムクティの至福を味わえますように。今生がわれわれの最後の誕生でありますように。言い換えるなら、われわれが自己中心的な理由で再び生まれる必要がありませんように。われわれが彼のためだけに生き、他の何もののためにも生きませんように。――この信念、信、そして経験をわれわれの人生に深く根付かせてください。師がわれわれに慈悲深くありますように。
あなた自身とすべてのものに愛を込めて
トゥリヤーナンダ
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