「輪廻の恐ろしさ」
◎輪廻の恐ろしさ
【本文】
三ヴェーダを知る人たちがわたしを供養して礼拝し、ソーマの液を飲んで罪汚れを清め、天界に行くことを求めて祈るなら、
彼らはインドラ神などの住む天界に達し、神々が味わうような快楽を味わうであろう。
善行の功徳によって天界の快楽を味わった後、功徳が尽き次第、彼らは再び地上へと戻ってくる。
このように三ヴェーダの教えに従い、愛欲を求める者たちは、永遠に生と死を繰り返すこととなる。
ヴェーダというのは、何度も出てきたように、インド古来の聖典ですね。このヴェーダっていろいろあるんだけど、その中でも中心的な三つのヴェーダっていうのがあって、それを「三ヴェーダ」というわけですが。ただこのヴェーダというのは、ちょっとまだ現世的な部分が大きいんだね。つまり、天界へ行くための教えとか、あるいはこの世でうまく幸せにやっていくための教えみたいな部分も強い。その伝統的なヴェーダをしっかりと学んで、そしてこのバガヴァーンを供養し、そして「天界に私は行きたいんです」とそれを望んで、ヴェーダの教えに則ってしっかりと徳を積み云々と。これはこれでもちろん素晴らしいんだけど、このタイプの人っていうのは、単に天に行って、そして天の快楽を味わうことはできるけども、それはさっき言った究極の――さっきの話で言うと、マトリックスの、コンピューターゲームの中から脱出する究極の真理ではなくて、そのゲームの中でいい状態に行くだけだから。このゲームのシステムとして必ず――はい、天界の領域に入りましたと。しかしここには時間的な制限があるんだね。それは何百年とか何千年とかいわれるけども、それくらいの寿命の後に、天の神も死ぬわけだね。そしてまたこの人間界などに落ちる。あるいは仏典とかでいうとよく、人間どころか、天の神が死んで地獄に落ちる場合もあるといわれている。
というのは、天の神というのは――ここでいう天っていうのは、天っていろんなレベルがあるけども、いわゆる愛欲の天だね。欲望の天。欲望の天というのはどういうことかっていうと、われわれと同じように、まだ欲望がいっぱいありますと。欲望がいっぱいあるんだけど、徳があるっていう状態なんだね。
考えてみましょう。徳があるってことは、幸せのエネルギーがいっぱいあるということです。幸せのエネルギーがあるってことは、例えばSさんがいて、Sさんが徳をたくさん積んで、欲望もそのままにしていたとするよ。そうすると、Sさんの欲望がこの世でかなり叶うようになります。例えば、思ったものがすぐに手に入るとか。あるいはお金が欲しいんだったら、すごいお金持ちになるとか。あるいは幸せな家族が欲しいんだったら、すごい幸福な家族に恵まれるとか。さらに徳を積んだらどうなるか。そうしたらもうその人間の感じられるような、何十倍・何百倍もの、それだけの幸せを得なきゃいけないんだけど、この人間界で得られる幸せって限界があるから、そういう人はやはり天に行くしかないんだね。
欲望があって、徳がいっぱいありますと。だから充分その徳の喜びを味わってくださいと。これが天界なんだね。
でもこれはお金みたいなもので、味わえばなくなっていく。もちろんそこで「いや、私はまだまだだ」と思って、謙虚にさらに徳を積み続けるとか。あるいはあまり喜びを味わわないとか。そうしてたらどんどん徳はたまる一方なんだけど、普通われわれの性質というのは、自分のキャパシティがあるけどね、キャパシティを超えると傲慢になるんです。
だからね、人間はちょっとぐらい不幸な方がいいんだね(笑)。不幸な方が努力する。だんだんだんだん徳が満ちてくると、すべてがうまくいくようになると、あまり努力をしなくなる。まるで過去に積んだ徳によって今ある平安な状態が、当たり前のような状態になってくる。当たり前のようになって、その喜びを味わい尽くすうちに、知らぬ間にどんどん徳が減っていって、「さあ、今日も喜びを味わおうかな」と思ったら、「あれ? もうない」と(笑)。残っているのは悪業だけとかね(笑)。
逆に言うと、みなさん天界にはあまり生まれないほうがいい(笑)。なぜならば、天界で悪業を浄化するのは難しい。変な言い方をするとね。一度天界に生まれてしまったら、最悪です。なかなか浄化ができません。だから人間界って一番いいんだね。浄化もできるし、徳も積める。
つまり、もう一回言うけども、天界に生まれてしまったら、あまり苦しみがないっていう条件設定がされてるから、悪業が減らないんです。善はどんどん減っていく。悪業はもう減らないからね、善がずーっと減って、悪業の方が多くなっちゃうんだね。悪業の方が多くなった段階で死んだら、しかもその人が心の中に悪業をたくさん隠し持っていたらね、それはもう地獄に行くしかない――っていうパターンもあるんだね。だから極端な場合、天の神が死んで地獄に行く場合もありますよと。
これがだから輪廻の恐ろしさなんだね。単純に徳があって、徳を積んで、ヴェーダの教えに則っていろんなことをやって、天界に行くことは簡単かもしれないけども、その後が怖いよと。それは延々と繰り返すんだと。でも人間というか、魂はそれを実は繰り返さないといけないんだね、いくらかは。繰り返すうちにやっと気づくんです。なんとなくわれわれの心の奥がね。記憶というのは消えているけど、輪廻転生で。脳的な記憶というのは消えてるんだけど、心の記憶って残っているから、より深い心の記憶みたいなのがね、何度も何度も天に生まれても地獄に落ちて、また天に行って地獄に行ってって繰り返していると、「何か輪廻って、あんまり価値がないな」と。「ちょっとこりごりだな」っていうのを気づき始めるんです。そういう人は無意識のうちに、輪廻を超える解脱の道に入ります。逆に言うと、まだその経験が足りない人っていうのは、一心に天を求めなきゃいけないのかもしれない。まだその段階にないというかな。だから、そういう意味ではとても、ある意味残酷だね。残酷っていうか、身を持って知るまでは、われわれは本当の意味での解放の道に入れない。