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「解説『スートラ・サムッチャヤ』」第一回(1)

2009/9/23

解説『スートラ・サムッチャヤ』 第一回

 今日は『スートラ・サムッチャヤ』ね。これはまた新しいシリーズですね。これはよく教学してる人は分かると思いますが、『入菩提行論』にちょっと名前が出てきますね。『入菩提行論』の中でシャーンティデーヴァが、「まず『シクシャー・サムッチャヤ』――これはね、正しい教えがいっぱい書かれているから、必ず見なさい」と。「あるいは簡単に『スートラ・サムッチャヤ』を見なさい」っていうふうに出てくるんだね。
 で、この『スートラ・サムッチャヤ』っていう作品は、まあ今回こう一番最初の部分を勉強するわけですけども、シャーンティデーヴァの作品、それからナーガルジュナの作品と二つあったっていう説があります。で、今回勉強会するのはどっちの作品なのかっていうのはよく分かってないんですが、はっきり言うと。まあどちらにしてもいい作品なので、勉強する価値があると思います。
 これがシャーンティデーヴァの作品だとした場合、シャーンティデーヴァの作品には三つあると言われますね。それがこの、まず『スートラ・サムッチャヤ』、これがもっとも短い作品です。短編ですね。で、『入菩提行論』、これがまあ中ぐらいの作品と。で、『シクシャー・サムッチャヤ』が、まあ一番長い作品と言われるんだね。この小・中・大の三つの作品があると。
 で、『入菩提行論』は皆さんにいつも薦めてるわけですけども、このね、『スートラ・サムッチャヤ』、それから『シクシャー・サムッチャヤ』ね。これからまたこれも本にする予定ですので、まあ勉強会等やりながら、のちのちには本にしてね、皆さんに提供したいと思います。
 はい。で、この『スートラ・サムッチャヤ』とか『シクシャー・サムッチャヤ』の「サムッチャヤ」っていうのは、まあ集まりとかいう意味なんだね。で、スートラっていうのは経典のことなので、つまりこれは経典の集まりと。つまりこれはどういうことかっていうと、『入菩提行論』はね、シャーンティデーヴァがシャーンティデーヴァ自身の言葉で、大乗菩薩の道を非常に美しくまとめてるわけですけども、この『スートラ・サムッチャヤ』は、経典からの引用という形で、菩薩の道をまとめているんですね。いろんな経典から引用しまくって、一つの論をたててるっていうかたちの経典ですね。はい。じゃあ読んでいきましょうね。

【本文】

 人間の体は受け難い。
 しかし私は今それを受けている。

 ブッダのダルマは聞き難い。
 しかし私は今それを聞いている。

 この身体、今生のこのチャンスにおいて解脱しなければ、
 さらにいずれかの生において解脱することは難しい。

 私は衆生とともに、三宝に心から帰依したてまつります。

 私はブッダに帰依したてまつります。
 衆生とともに、菩薩の道を理解して、無上の菩提心を発こします。

 私はダルマに帰依したてまつります。
 願わくば衆生とともに、深くダルマを理解して、智慧の海の如くになりますように。

 私はサンガに帰依したてまつります。
 願わくば衆生とともに、苦しむ衆生を導き、すべての障害を取り除きますように。

 はい。これは序文の部分ですが、まあこれは今日から新しいシリーズになるわけですけど、大体仏教関係の書物っていうのは、最初の方っていうのはだいたい同じような話がどこの経典でも続くんですね。でも、それはまあ非常に重要なことなので、いつも新しいシリーズがくる度に同じような話になるんですけども、それはそれでとても重要なので、しっかり学ぶといいですね。
 はい。この序文はとても美しい文章ですね。まず、「人間の体は受け難い。しかし私は今それを受けている。ブッダのダルマは聞き難い。しかし私は今それを聞いている。この身体、今生のこのチャンスにおいて解脱しなければ、さらにいずれかの生において解脱することは難しい」と。
 はい、これはこのあとの方でも一番最初に出てくるんですが、いわゆる人間として生まれ、修行できる稀有なチャンスっていうところを、まず言ってるわけですね。
 これは皆さんに今回提供した『安らぎを見つけるための三部作』の最初の方でもその部分が出てきますけども、これはもう本当に何度も何度も繰り返し自分自身に言い聞かせ、納得させなきゃいけない部分なんですね。
 「人間の体は受け難い」――ね。これもいつも言うように、われわれはね、当たり前のようにこう人間として生きてますけども、まあ仏陀、お釈迦様や、あるいはヨーガ等の聖者の教えによると、われわれが人間に生まれるっていうのは、大変稀なことなんだと。ね。
 あの、最近の霊能者とかはすごくいい加減に輪廻転生のこと言うけども、まあ少なくともお釈迦様の教えに従えばですよ、お釈迦様の教えに従えば――まあこれも何度も言ってますけど、もう一回言うけどね――指の先に砂のね、砂の塊を乗せて、弟子たちに聞くわけですね。「弟子たちよ」と。「このわたしの指の上の砂と、大地全体ね、この地球全体の大地の砂の数ではどちらが多いか?」と。で、弟子は、「そんなものは比べものにならない」と。お釈迦様の指のその砂よりも、大地の方が多いのは当たり前じゃないですかと。それは比べものになりませんと。で、お釈迦様が恐ろしいことを言うわけですね。「弟子たちよ」と。人間が死んで、地獄・餓鬼・動物といわれる三つの苦しみの世界ね、ここに行くか、もしくは人間か神――これは善趣っていうわけですけども――人間か神っていう輪廻でもましな世界に行くか――この差はこれくらいの比率だって言ってるんです。ね(笑)。つまり大地と指の先に乗せた砂ね。つまりもう、数字にすると九十九.九九九九九パーセントぐらいの確率で、われわれは地獄・餓鬼・動物に落ちますよと。これはね、皆さん原始仏典を調べれば、そういうふうにお釈迦様は説いています。それはもう皆さん自身が瞑想して、その実質をね、確認すればいいと思うけども、少なくともお釈迦様はそう言ってらっしゃる。
 となると、そもそもわれわれが、のほほんと生きてるこの人間としての生自体が非常に稀なもんだと。そして――ちょっとあとでも出てくるけども――修行っていうのは、人間にならないとできないんだね。うん。これはいつも言うように、地獄・餓鬼・動物にはできないし、で、逆に神でもできない(笑)。ね。
 これもいつも言うように、神っていうのはいわゆる欲望を満足しすぎてるから、ちょっとできないんだね。これもいつも言ってるけど、皆さんどうですか? 皆さん例えば、皆さんが神になるってことはどういうことかっていうと、例えば人間から死んで神になったとしますよ。そうすると、人間として味わっていた喜びの何万倍、何億倍もの喜びが一気にくるって感じなんです。どうですか皆さん。多分その段階で、「おれは修行なんかいい!」っていう人は多分いないと思う。でも、多分皆さんこう思います。「あ、ちょっとだけ楽しもうかな」と(笑)。ね(笑)。「修行わたしは辞めます」とは言わないけども、すごい喜びだと。「まあちょっとぐらいいいか」ってそこで楽しみます。で、浦島太郎じゃないけど、ちょっと楽しんでる間に、数万年とか経ってるんだね(笑)。まさにそれが神々。だから天界に行くと、もう本当に修行できない。
 これは皆さん自身もさ、自分の人生振り返って分かるかもしれない。まあ皆さんまだ修行経験浅いから、どうか分かんないけども、修行経験長い人は、例えばね、いろんなカルマの浄化とかいろいろあって苦しいことがあると、「もうおれには修行しかない」ってなって(笑)、「命を捨てても……」とか思うんだけど、その状況が改善されてきて、例えば人間関係も良くなってね、みんなが自分を褒めてくれるようになって、すべてがうまくいくようになると、なんか心が緩んでくるんだね(笑)。そんなに一生懸命やんなくていいかって感じになってくる(笑)。これが人間の弱さなんだね。
 で、それどころではなくて――つまり神の喜びっていうのは、今言ったように、人間の安心とかね、人間の安らぎなんて比べものにならない喜びがくるから、頭では「修行しなきゃいけない」って思ってたとしても――例えば「神も無常である」と。「わたしは教わった」と。「神も死ぬんだ」と。だから、「神の中で喜んでたら、すぐに死がやってきて地獄に落ちるかもよ」って頭では分かってても、心がついていかないんだね。だから、神の世界で一生懸命修行するっていうのは非常に難しい。よって、人間界っていうのが、唯一の修行のチャンスなんですよと。

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